悪夢の果て
1
暑い夏は終わり、秋もすっかり暮れて、人々はそろそろ冬の訪れを感じていた。
薄い青の空は何とはなしに寒々しく、これから来るべき厳しい季節を予兆しているようだ。
この年の夏、とある藩では大きなお家騒動があった。
それは望月藩という外様の藩で、家臣が主君の姫の殺害を企てたのだ。
有能な用心棒のおかげで、危ないところで姫の命は助かった。
その姫の名は、初と言う。
初姫が家臣の筑波宗重を婿に藩を治めるようになって、ようやく望月藩も落ち着きを取り戻した。
騒動を起こした張本人、大目付の大野治基は捕まり、その身をもってことの収拾が図られたのだが、彼の最期は周りに恨み言を吐き散らし、それは凄絶な様子だった、というのは望月藩から来た旅人たちの口癖だった。
それほどの大事件であったにもかかわらず、幸運なことに幕府からのお咎めもなく、初姫をはじめ、望月藩の家臣たちはさぞ安堵に胸をなでおろしたことだろう。
そんな旅人たちの噂を聞きながら、信じられない思いで往来の真ん中で呆然と立ち尽くす少女がいた。
「う、うそ・・・」
その少女は、見たこともない丈の短い衣を身にまとっている。
誰あろう、彼女こそ望月藩の存続に尽力した大恩人、紗依なのである。
初姫救出という大役を果たした彼女は、元の世界に戻るべく、初姫の意識と入れ替わった――――はずだった。
が、どうだろう。
気がついてみればそこには見慣れた光景はなく、世は江戸時代、周囲は和服の人ばかり。
まるで映画の撮影所のようだ。
制服姿の自分が、まあ、目立つこと目立つこと。
いやおうなく耳に入る人の話し声から、望月藩のあの大事件の少し後であるらしいことは分かった。
だが、ここがどこなのか、そもそも何故自分がここにいるのか等々何も分からない。
これから行くべきところも分からない。
「どうしよう・・・」
「あの」
「え?」
途方にくれていると、後ろから声を掛けられて、紗依は振り返った。
若い男だ。
髷を結ってこざっぱりした縞の着物を身に着けている。
背は紗依より少し高いくらい、猫背なのかやや前かがみで、にこにこ笑みを浮かべている。
一見気弱な町人のようにも思えるが、しかし、目の奥に冷たい光を感じて、紗依は思わず一歩身を引いた。
「あの、何か・・・」
「え? いえいえ。あなたがお困りのようでしたから、お声を掛けたのでございますよ」
穏やかな口調でそう言うと、その男は紗依が空けた二人の距離を、紗依が離れた以上に詰めた。
動きにまったく隙がない。
「いえ、私、そんなに困っていませんから」
自分の中で、危険信号がともっている。ついこの間まで命を狙われていた産物だろうか。
自分に向けられた敵意がはっきりと感じられた。
逃げようとしたところで、一足早く腕をつかまれてしまった。
「まあ、お待ちくださいな。遠慮ならなさらなくて結構です。私は先ほどからあなたを見ていたのですよ。ですから、困っているのも分かったのです。あなたは旅の方ですか?」
男は頭のてっぺんからつま先まで、無遠慮に紗依を見つめる。
それがまるで品定めでもされているかのように思えて、紗依は腕を振り払おうと躍起になった。
「離してください!」
「いえいえ。お困りの方をほうっておくことはできませんから。気が動転なさっているのですね。ささ、ここでは何ですから、ゆっくりと話ができるところへ参りましょう」
強引に腕を引っ張られて、必死に抵抗を試みるのだが、悲しいことに力では太刀打ちできない。
紗依はずるずると往来から路地のほうへ引きずられていく。
「いやっ! 離して!」
このまま行ってはいけない。
それは痛いほど分かる。
なのに腕を振り解けない。
ずるずる連れて行かれてしまう。
往来には人がいるはずなのに、紗依の必死の助けの叫びを誰も聞きとどめてはくれない。
真っ昼間の往来はただでさえ賑わっているから、紗依の声が届かないのかもしれないが、男はそれをうまく理解しているようだ。
紗依がいくら騒ごうとも、男は微塵も動揺を表さない。
それどころか、
「そんなに大声を上げては、みっともないですよ」
そんな余裕綽々なことを言ってくる。
恐れを抱く紗依の姿を楽しんでいる風さえあった。
自分ひとりではどうすることもできない。
紗依は精一杯踏ん張って、思いをぶつけるように思い切り叫んだ。
「誰か、助けて――――!」
「だから、無駄だと・・・」
できの悪い子どもを諭すような口調でそう言いかけた男の言葉が、突然涼やかな音とともに降ってきたものに遮られた。
――――あれは、鈴のついた・・・クナイ?
急に手が離されてバランスを崩した紗依が、飛来したものを目にとらえたのと、背中にあたたかい熱を感じたのは、同時だった。
とん、という軽い衝撃とともに何かに支えられた紗依の耳に、後ろから聞き覚えのある声が聞こえた。
「この娘は嫌がっているだろう。いい加減にしないと、今度はアジトを吹き飛ばすだけではすまさん」
「貴様はっ・・・!」
この声・・・。
聞き覚えのある声に、紗依はばっと顔を後ろへそらした。
「あっ・・・!」
その人物を捕らえると、とたんに体が震えだす。
予想通りの人物に、胸の中いっぱいに絶望が広がった。
紗依の目の前では、その人物の薄い水色の髪が冷たい風になびいている。
その下にある端正な顔立ちの中で、ひときわ目立つ左右違う色の瞳。
細身であるのに華奢ではなく、むしろよく鍛えたれたたくましい体躯には、右腕がなかった。
見覚えがある。
あるどころではない。
この人物こそ、直接姫の命を狙った張本人。
「貴様、霞丸か!」
町人風の男は忌々しげにそう吐き棄てた。もはや善人を装っていた仮面ははがれていた。
二人の間には浅からぬ因縁があるのだろう。
男の目つきは、まるで親の敵を見るようだ。
しかし、深い憎悪をたたえた目を向けられても、霞丸は別段恐れる様子も見せなかった。
「女衒まがいのことはやめろといったはずだ。騙されて遊女に身を落とした娘の悲しみが、まだ分からんか」
「うるせぇ! てめえに指図されるいわれはねえんだよ!」
男は懐から匕首を出した。
普通の堅気の町人には似つかわしくない道具である。
敵意むき出しの相手に、霞丸は軽く息を吐いた。
「仕方あるまい」
応戦の体制をとる。
二人の間には息も詰まるような剣呑な殺気が満ちる。
だが、その二人の間にいる紗依に、その空気を読む余裕さえなかった。
勝手に口が動いていた。
「風魔・・・霞丸・・・」
「え?」