悪夢の果て
2
不意に名前を呼ばれて、霞丸が目を瞠る。男も意外そうな目つきで二人を眺めた。
そのうち、男の口元には酷薄な笑みが浮かんだ。
「そうか。その娘、お前の女か」
「何?」
何故初対面の娘が自分の名を知っているのか、その疑問が解けないまま、霞丸はさらに理解しがたいことを言われて眉を寄せた。
「何を言っている。この娘など俺は・・・」
「隠してももう遅い。そうか、お前にそんな弱みがあったとは」
くつくつと喉の奥で笑う男に、霞丸が不快な色を浮かべた目を向ける。
「貴様、これ以上わけのわからないことを言うと、斬る」
「そんな顔をしても無駄だ。ククク・・・これは良いことを知った」
心から楽しそうに笑い続ける男に、いい加減霞丸が刀を抜きかけた。だが、それをいち早く察知した男は、顔を歪めたまま素早く身を翻していた。
「せいぜい、女を大切に扱うことだな!」
「おい!」
否定する間も与えぬまま、町人風の男は往来の人々にまぎれるように走り去っていった。
あわてて追いかけようとしたのだが、瞬きする間に男の姿は消えてしまっている。
忌々しい思いを押し殺し、霞丸は改めて自分が助けた娘を見た。
柄にもなく人助けなどするのではなかったと、舌打ちする。
一度は見過ごそうかとも思ったのだが、娘の悲痛な叫びを聞き逃すことはできなかったのだ。
「おい、娘。いつまでほうけている」
気がつくと、その娘はがたがたと震えていた。
焦点を結ばない目がゆっくりと霞丸に向けられ、改めて娘の顔に驚きが走った。
「そういえば、お前。何故俺の名前を知っていた?」
霞丸は普通に問いかけているのだろうが、娘――――紗依のほうは身をこわばらせた。
何故霞丸の名を知っているか。
それは簡単だ。
自分の命を狙われた相手だからだ。
霞丸は初姫の命を狙っていた。
だが、あの時初姫の体の中にいたのは紗依であり、初姫を通して実質的に追われる恐怖を味わっていたのは他でもない、紗依自身だったのだ。
血の臭い。
怒号と悲鳴。
そして初めて感じた命の危機。
何もかもが一緒になって押し寄せてきたのだ。
現代で平和に暮らしていた紗依にとっては、一生忘れられない体験となった。
いろんな人が傷つき、そして命を落とした人も少なくない。
そう思うと、とんでもない修羅場を潜り抜けたのだと改めて感じる。
だからこそ、当時を思い出させる、直接命を奪いに来た霞丸との再会に、紗依は薄れ掛けていた恐怖を思い起こされ、何も返すことができなかった。
そもそも霞丸は死んだのではなかったのか。
崖から落ちて命を落としたと聞いていたのに、彼はこうして生きている。
あの時との違いと言えば、右腕がないことだけだ。
もしかして、また・・・。
身を震わせた紗依は、すがるように胸元にあったペンダントに手を伸ばす――――
「えっ!?」
突然あげた驚きの声に、後ろにいた霞丸も一緒に目を見開く。
「どうした」
いぶかしむ彼に、あれだけ恐怖を抱いていたのも忘れ、紗依は困惑しきった顔を向け、ポツリと告げる。
「ペンダントがないんです」
「ペンダント?」
現代と過去をつなぐ大切なもの。
それがないと紗依は一生もとの世界に帰れない。
だからこそ、失くさないように胸にかけていたのだが・・・。
今にも泣き出しそうな紗依の顔を見た霞丸は、しばし思案した後、きっぱりと言い切った。
「おそらく、先ほどのあいつの仕業だろう。それまではあったのだろう? だったら、それしか考えられん」
「そんな・・・」
愕然とした思いが紗依の目の前を真っ暗にする。
あれがなければ帰れないのだ。
やっと帰り着くことができた、懐かしい世界に・・・。
そう思うと紗依の目に涙が浮かんだ。
「お、おい」
珍しく狼狽したような霞丸の声を聞いても、涙は止まらない。
絶望いっぱいのまま、なすすべがない。
あの男がペンダントを持っていったというなら、取り返しに行かなければならない。
もしすぐにどこかに売ってしまって、もう二度と取り返せなくなってしまったら・・・それではもう遅いのだ。
けれど、紗依には自分に取り返すだけの力がないこともまた、よくわかっていた。
ついさっきさらわれかけたのだ。
もし霞丸が来てくれなければ、どうなっていたことか・・・。
紗依はふとそこで顔を上げた。
よほどきょとんとした顔をしていたのか、霞丸がいぶかしげに目を瞠った。
「何だ」
「あ・・・その・・・さっきは、ありがとうございました」
「は?」
そういえば助けてもらったのに礼を言っていなかった。
気づいてしまうと、ペンダントのことも一瞬忘れ、感謝の言葉が自然と口をついて出た。
「・・・別に、礼を言われることをした覚えはない。しかもお前は、俺の女と勘違いされてあいつに狙われることになった。面倒が増えただけだ」
「そんなこと・・・あなたがいなければ、今頃どうなっていたか分かりません。・・・あ」
「?」
紗依はぽんと手を打った。
霞丸の女だと思われて、狙われるということは、あの男との――ペンダントとのつながりはまだある。
一刻も早く見つけなければならないのは変わらないし、売り飛ばされてしまう可能性がなくなったわけではないが、向こうから接触してきてくれれば、探す手間も省けるというもの。
「いいか、しばらくはおとなしく家にこもっていろ。・・・仕方ない、その間にあいつをどうにかするから」
「いいえ、家にこもっていたらあの男の人は私を見つけられません」
きっぱりと言い切る紗依に、霞丸は眉を寄せる。
「お前はあの男に狙われたいのか?」
「だって、そうじゃないとペンダントを取り返せないし・・・それに・・・私には、家がないんです・・・」
そう、この時代に紗依の家はない。
両親もいない。
家に帰るためにはどうしてもペンダントが必要だった。
だから――――
「お願いです。一緒に連れて行ってください」
意を決してそう願い出た。
ぎゅっと握った拳は震えが止まらない。
かつては命を狙われた相手に対して、そう簡単に恐怖は消えない。
でも、霞丸がいなければ今頃紗依はならず者に連れ去られていた。
今は命を狙われるどころか、助けてくれた。
殺されかけたり助けられたり、霞丸は味方なのか敵なのかわからない。
だが、大野治基亡き今、今更命を狙われることもないだろう。そもそももう初姫の姿ではないのだ。
そう思うと、目の前の男は逃げるべき相手から、唯一のよりどころとなっていた。
「お願いします」
勢いよく頭を下げる紗依の前で、霞丸はしばし黙考した。
断る、という一言が出てこなかった。
何故なのかはわからない。
そんな自分の気持ちをいぶかしく思いつつ、結局は首を縦に振っていた。
「・・・あいつに好き勝手させるのも癪だし、お前が死ぬようなことがあっては寝覚めが悪い。・・・いいだろう」
「ありがとうございます」
安堵した様子の紗依は、もう一度深々とお辞儀した。
絶望的な状況は変わらないのに、何故か救われた気分になる。
かつては心の底から恐怖を抱いた暗殺集団の頭目なのに、と思うと本当に不思議な気分だった。
「では、行くぞ」
「はい」
紗依は先に歩く霞丸においていかれまいと、早足でその後に続いた。