悪夢の果て







 何故断ることができなかったのだろうか。
 後ろから自分の後をついてくる気配を感じながら、改めて霞丸は自分の行動に首をかしげた。
 人助けなど、性に合わないことをしたから、そのせいでどこか正義心の欠片でも生まれてしまったのかもしれない。

 そんなものは偽善でしかないのに。

 霞丸は肩をすくめた。
 だいたい、この娘をどうしようというのか。
 先ほど助けた娘は、そういえば、自分を知っている様子だった。
 隠密家業ゆえ、これまで人前に出ることはあまりなかったし、名乗ることはもっとしなかった。
 昔抱いた行きずりの女の知り合いだろうか。
 そう考えてみたものの、やはりそれらしい答えは見つからなかった。
 彼女に直接聞いてみても良いが、そこまでするほどのことでもあるまいと、そこで思考を止めた。
 そんなことより、ほかに気にしなければならないことがある。

「あの・・・」

 後ろから遠慮がちな声に誘われ、霞丸は歩みを止めずに少しだけ首をめぐらせた。

「何だ?」

「今更だとは思うんですが、さっきの人って、何者なんですか?」

 不安げな表情を浮かべた娘が、それでもしっかりと自分の後についてくることに、何故か安堵が生まれた。
 それを無性に打ち消したくて、霞丸は饒舌になる。

「ただの小悪党だ。非力だがずる賢く、陰険な奴で、女を騙しては色里に売るような真似を繰り返していた。ちょっとしたことで奴と衝突して、奴のねぐらをつぶしてやったが、どうやらそれを恨みに思っているらしいな」

「あなたが、人助けをしたんですか?」

 嫌味ではなく、何の含みもないはずの娘の疑問に、胸がきしんだ。

「・・・人助けではない。それはついでだ」

 ついと顔を背けて歩調を速めた霞丸に、娘のほうは慌てたように言葉を重ねた。

「ごめんなさい。気を悪くさせてしまって・・・。でも、あなたはさっきも私を助けてくれました」

「別にお前を助けようと思ったわけではない」

「でも、私はあなたに助けてもらったと思っています」
 追いすがる娘の姿は、霞丸において行かれまいと必死で、それを見て心が落ち着く自分に心底疑問が浮かぶ。
 俺はどうしたと言うのだ・・・。
 不可解な思いを抱きつつ、霞丸は人を避け、細い路地に入っていく。

「あの・・・どこに行くんですか?」

「黙ってついてこい」

 会話をしているうちに、娘に心を許していくのが分かった。
 それを否定するように霞丸はやや歩調を速めて、路地を進んでいく。

「あ、ちょっと・・・」

 後ろからあわてた声が聞こえたが、振り返ることはなかった。
 一つ道を外れて歩いていくと、だんだんと長屋が増えてきた。
 井戸端で談笑するおかみさんたちや、その周りで遊ぶ子どもたちの姿がちらほらと見られる。
 同じような長屋が続き、初めて足を踏み入れるものは迷うこと確実であるが、霞丸はためらいなく進み続けて、とある長屋までやってきた。
 遠慮なく戸を開けた先には、一人の痩せた男がこちらに背中を向けて座っていた。

「おい」

 長屋の中は薄暗くて様子が良くわからない。
 だが、霞丸はそんなこと一向に気にせず、感情のこもらぬ声で短く一言。

「やつの居場所を教えろ」

 他人が聞けば意味を把握できずに眉を寄せるだろうが、中にいた男にはそれで十分だった。
 クッ、と喉の奥で笑ったかと思うと、その男は背を向けたまま、二つ折りにした懐紙を投げて寄越した。
 開いてそこに書かれているものを確認した霞丸は、代わりに小さな包みを男に投げる。
 後ろ向きであるのに器用にそれを受け取り、なにやらごそごそと音がした後、

「お気をつけたほうが良いですよ。あいつは・・・銀二は、アジトをつぶされてひどくお頭を恨んでいます」

 小さな声が風に乗ってようやく聞こえてきた。

「分かっている。それと・・・俺はもうお頭ではない」

 それだけ言うと、霞丸は音もなく長屋を後にした。
 陰気な室内を抜けると、急に太陽の光がまぶしく感じられる。
 粗末な木の戸一つ隔てただけで、ずいぶんと違うものだ。
 現実の世界に戻ってきたような、そんな感覚に陥る。
 霞丸はそこにいるであろう娘に声を掛けようとして・・・。

「!?」

 ようやく娘がいないことに気がついた。
 瞬間、今しがた元部下からの言葉が蘇る。

「お気をつけたほうが良いですよ」

 それはこのことだったのか?

「――――ちっ」

 なにやら嫌な予感がする。
 霞丸は身を翻し、元来た道を駆け出した。





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