悪夢の果て
4
霞丸は一体どこへ行ったのだろう。
彼の後を追っていたはずの紗依は、いつしか彼についていけずに、そのままはぐれてしまった。
周りは同じような長屋が続いている。どこから来たのかすら分からない状態だ。
「霞丸さん・・・?」
呼んでみるが、それらしい人物はいない。本格的に迷子になってしまったようだ。
「どうしよう・・・」
肩を落として途方にくれる紗依の肩に、突然手が置かれた。
「霞丸さん・・・?」
はっとして希望を込めて振り返った彼女の眼には、次の瞬間絶望が映し出される。
「残念だったな」
「!?」
そこに立っていたのは、先ほどかどわかされかけた、痩身の若い男だった。
ぞっと紗依の身の毛がよだつ。
表情を硬くした彼女とは対照的に、男はにやりと実に嬉しそうに凶悪に笑った。
「霞丸も馬鹿な奴だ。こんなに簡単に女を手放すなど。それとも、お前が捨てられただけか?」
ぎゅっと紗依の肩を掴むと、おぞましい表情を近づけてきた。
「どうあれ、利用価値などいくらでもある。最終的に売ってしまうことには変わりないがね」
「は、離して!」
「ククク・・・声が震えているな。せいぜい怖がっているといい」
男は紗依を気絶させようとこぶしを振り上げた。
反射的に目を閉じる紗依。
「・・・・・・」
だが、来るべき衝撃はやってこなかった。
変わりに聞こえたのは、男のうめき声だった。
「ぐうっ・・・」
「え・・・?」
恐る恐る目を開ける。
そこには・・・。
「抜け目のない奴だが、あいにくとこいつはやれんな」
クナイを右手に刺した男を一瞥して、涼やかな様子の霞丸が立っていた。
「大丈夫か?」
「あ・・・はい」
あまりにもタイミングの良い霞丸の登場に、紗依は安堵のために涙が出るかと思った。
ほっとして思わず彼の腕を掴んでしまうと、振り払われるかと思われたのだが、しかし意外にも霞丸はしっかりと受け止めてくれた。
「くっ・・・おのれぇ・・・」
先ほどまでの表情が一変。
悔しそうに顔を歪める男に、さらに霞丸は容赦ない冷たく凍りついた言葉を投げる。
「気をつけたほうが良い。そのクナイには俺が特別に調合した毒が塗ってある。毒消しは俺の持つもの以外ない」
「くっ、てめえぇっ・・・」
「早くも目がかすんできただろう? それは俺の自信作だからな」
解毒薬が欲しいか? と、わざと見せ付けるように、それらしい包みを、霞丸は懐から取り出した。
「欲しいか?」
「よ、よこせぇ・・・!」
ふらつく足取りで、男は霞丸から解毒薬を奪い取ろうとするのだが、勿論軽々と逃げられてしまった。
思うように動かない体とは対照的に、二つの目だけは憎しみをあふれんばかりにたたえ、ぎらぎらと光っている。
紗依にはそれが恐ろしかった。
だが、そんな男の様子を見ても、霞丸の顔色はまったく変わらない。
「これを渡しても構わないが、条件がある」
紗依をかばうように前に出る。
「お前が奪った首飾りを渡してもらおうか」
「しらねぇ・・・」
「知らないはずないだろう。こいつから盗み取ったものだ」
霞丸は男を見下ろした。
「さっさと渡さないと、完全に毒が体に回るぞ」
「ぐぅぅ・・・」
男の顔には大量の汗が吹き出している。
一刻の猶予もないことは、毒に詳しくない紗依にも分かった。
「さあ、言え」
「・・・・・・ここにはねえ。俺の住む長屋に置いてある」
「・・・そうか」
この男が住む長屋とはどこのことだろう。
紗依が首をかしげていると、
「良いだろう」
霞丸は約束どおり男に包みを差し出す。
男の手に包みが落とされた瞬間――――男の目に宿っていた憎しみが一気に爆発した。
「死ねぇ!!」
力を振り絞って、男が懐から出した匕首を突き出してきたのだ。
苦しそうにしながらも、素早い動作だ。
完全な不意打ち。
「きゃあっ! 霞丸さん!!」
紗依の悲鳴が、交錯する二人に降りかかる。
勝負はいつの間にかついていた。
一瞬の後、土煙を立ち込めさせながら倒れこんだのは、男のほうだった。
「ふん。おとなしく引き下がれば、命くらいは助かったものを」
悠然と長い髪の毛を風に遊ばせる霞丸は、男から流れ出した血を避けるように歩いてくると、紗依の腕を掴んだ。
「行くぞ」
「あ、は、はい・・・」
人が目の前で死ぬのはこれが初めてじゃない。
あの逃亡劇の中で、たくさんの命が犠牲になったのだ。
だが、忘れかけていた感覚が足元からそくそくと蘇ってきて、震えが止まらない。
どこからか断末魔の叫びが聞こえてくるような気さえする。
「・・・・・・」
おぼつかない足取りでふらついてしまう体を霞丸に支えられながら、紗依たちは急いでその場を立ち去った。