悪夢の果て







 震える娘の体を支えながら、霞丸は舌打ちしたい気分でいっぱいだった。
 娘の前で、あの男を殺すつもりなどなかった。
 こうなることが分かっていたから。
 娘は真っ青な顔のまま、先ほどから何も言おうとはしない。そんな気分にはなれないのだろう。
 当然だ。かたぎの娘は人殺しの現場など見たことないはず。それも目の前で。
 霞丸はひとまず休める場所を探した。
 娘の首飾りを奪い返しに行ってしまいたいところだが、このまま娘を放置することは出来ない。

 ――――俺もずいぶん甘くなったものだ。

 面倒ごとを押し付けられているというのに、不思議とそれは苦ではない。
 むしろこの娘の面倒を見てやることに、使命感のようなものさえ生まれかけていた。
 何故だろうか。
 命令されたわけではないし、そもそもこの娘は自分の主ではない。

 ――――俺は新しい主人を探したがっているのか?

 霞丸の脳裏に、以前の主人の顔が浮かんだ。
 道を踏み外し、地の底へ落ちていったその顔を思い出すたびに、胸に苦い思いが広がる。
 絶対だと思って仕えていた主人を失い、同時に自分の存在価値、居場所、将来をなくした。
 右腕のないことなど、それらに比べれば些細なことだ。

「あの・・・」

 よほど険しい表情をしていたのか、おずおずと控えめに娘が声を掛けてきた。

「何だ?」

「さっきの男の人・・・」

 やはり目の前で人が死んだことが気になっているのか。
 非難の声を浴びる覚悟をしていると、娘は意外なことを口にした。

「あの人の言っていた長屋って、どこなんでしょう? その・・・ペンダントがあるって言う・・・」

「ぺんだんと?」

「あ、えっと、首飾りのことです。あの人の住んでいる長屋にあるんですよね?」

「あ、ああ」

 てっきりなじられるとばかり思っていた霞丸は、不意をつかれた思いで娘を見下ろした。
 相変わらず体は震えていて、支えていてやらないと倒れてしまいそうだ。
 だが、こちらを見上げてくる目は不思議と強い光に満ちており、思わず息を飲んだ。

「そんなにあれが大切か?」
 気がついたら、そんなことを口にしていた。
 すると娘は力強くうなずく。

「はい。どうしても、あれがないとダメなんです」

 あの首飾りは、彼女にとってどういう意味を持つものなのだろうか。
 そこまで真剣になる必要がどこにある?

「ごめんなさい。思うように体が動かなくて・・・」

「いや、仕方がない。人が死ぬのを見たのは初めてか?」

「・・・いいえ、そんなことないです」

 これまた予想とは違った答えだった。
 この反応からするに、人の死には縁がなさそうだと思っていたが、そうではないらしい。
 娘に引かれていくのが、自分でも分かった。

「お前、名前は?」

「あ・・・すみません、まだ言っていなかったんですね。紗依です」

「紗依・・・」

 小さく呟くと、彼女は恥ずかしそうにかすかに微笑んだ。
 刹那、霞丸はとっさに顔をそらした。

「――――っ」

 何だろうか、この心が埋められていくような感じは。
 彼女が笑っただけなのに。
 それに、腕にかかるこの重みが、話しがたく思えるのはどうしてなのだろう。

「霞丸さん?」

 急に立ち止まってしまった霞丸を不審に思った紗依が声を掛けてきて、ようやく我に返る。

「・・・何でもない」

 どうかしている。
 何故先ほどであったばかりの娘に、ここまで気をとられねばならないのか。
 今までの考えを打ち消すように首を振ると、霞丸は紗依を支えながら再び歩き出した。





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