悪夢の果て







「う・・・ん・・・」

 何か体が重い。
 せっかくお風呂にも入り、夕食もとって、安らかな気持ちで布団の中で休めたというのに、一体どうしたのだろう。
 倦怠感とかだるいとかではなく、自分の上に何か乗っているような苦しさに、紗依はゆっくりと目を開けた。

「!?」

 まどろみの中にあった彼女は、頼りなげな月明かりに照らされた重みの原因を目にし、はっと息を飲んだ。

「か・・・霞丸・・・さん・・・?」

「・・・・・・」

 目の前には霞丸が迫っていた。
 恐ろしいほどの無表情。
 そのくせ色の違う目には剣呑な光を宿しながら、紗依を見下ろしている。

「何・・・?」

 事情が飲み込めない紗依を置き去りにして、霞丸は右手を振り上げた。その手には短刀が握られている。
 それが自分に突き立てられようとしているのが、嫌にはっきりと分かってしまう。
 紗依は逃げようと必死にもがくが、左手が素早く伸びてきて、喉のあたりを押さえつけられてしまった。
 その力はとても強い。
 とたんに息が詰まる。
 これでは逃げられない。
 刀が光を浴びて嫌な輝きを見せた。

「い・・・やっ・・・」

 恐怖にとらわれた紗依は、隻腕になったはずの霞丸に何故両腕があるのかということに疑問をもてなかった。
 今まさに振り下ろされんばかりの彼の右腕。
 そのとき、平坦な彼の声が不吉に響いた。

「死ね、初姫!」

「!!?」

 その言葉とともに、刀が反射した月の光が弧を描いた。
 紗依はなすすべもなく、ただぎゅっと目を閉じた。





「!!」

 何か声にならない言葉を叫んだような気がする。
 はっと飛び起きた紗依の上には、もう霞丸はのしかかっていなかった。
 おぼつかない月の光だけが頼りの世界は変わらないが、先ほどとはまったく違う。
 ゆっくり視線を移すと、こちらに背を向けて寝る霞丸の背中が見えた。
 襲い掛かってくる雰囲気はまったくない。

 夢・・・?

 少しずつ蘇ってくる記憶を整理しながら、紗依は知らぬうちに、夢の中で押さえつけられた首に手を当てていた。
 もう苦しくはないのに、まだ手の感触が残っている。

「――――」

 紗依は長く息を吐き出した。
 夢の、もう少し前まで記憶をたどっていく。
 あれから霞丸はとある料理屋の二階に紗依を導いた。
 店屋だというのに建物は人の多いところから外れており、あまり客もいないみたいだった。
 店主と顔見知りらしく、主人は霞丸を見るなり神妙な面持ちで二人を二階へ案内した。
 それから店主と霞丸は少し話をしていたようだが、紗依には内容は分からなかった。
 畳の上に座ると、安堵のためか途端に眠気が襲ってきて、霞丸と店主が話し込んでいるうちに、紗依は眠り込んでしまったのだ。
 目が覚めたときには、すっかり日が落ちていた。
 畳の上に寝転んだところまでは覚えているのだが、布団を敷いてその中に入った記憶はない。
 きっと霞丸がやってくれたのだろう。

 ――――迷惑、かけているよね・・・。

 紗依の中に苦い思いが浮かぶ。
 色々ありすぎた。
 今日だけで二度も命の危機にさらされたのもそうだが、その前までさかのぼると数え切れない危険が常に付きまとっていた。
 命からがらどうにかお城まで逃げ切ったのは、本当につい数日前のことだ。
 ようやく紗依は今まであったことを整理する余裕を得た。
 無事に城にたどり着けた紗依は、ともに城に着いた宗重の指示で何人かの護衛を付けられて、山で別れた用心棒たちの帰りを待っていた。
 大野治基の行方が知れず、まだ命を狙われる可能性があったからだ。
 数日して用心棒たちは帰って来、ほっとしたのもつかの間。
 安心して眠って起きたら、知らない道の真ん中に紗依の姿で突っ立っていたのだ。
 何がどうなっているのかさっぱり分からない。
 望月藩の騒動から少し経っているらしい。
 今更時間を超えてしまったことに驚くわけではないが、最後まで一緒にいてくれた人の結婚には、今思い出しても胸が痛んだ。
 望月藩はすべて上手くいったのに。
 どうして自分はこんなところにいるのだろう。

「・・・・・・」

 気持ちが沈んでいく。
 ずぶずぶと泥の中に埋もれていくイメージが頭の中に浮かんだ。

「うっ・・・」

「!?」

 出し抜けに隣からうめき声が聞こえてきて、紗依ははっと身を強張らせた。
 声の主は分かっている。
 隣で寝ていた霞丸だ。
 何かあったのだろうかと紗依がにじみよると、障子から漏れる月明かりの下にある霞丸の顔は、苦痛に満ちていた。
 昼間、あの男と戦ったときにどこか怪我でもしたのか。
 それとも具合が悪くなったとか。
 紗依がおろおろとしていると、彼の口からは意外な名前が零れ落ちてきた。

「治基さま・・・!」

「!」

 冷水をかけられた思いがした。
 そうだ。
 この人は紛れもなく大野治基の部下で、初姫の命を直接狙ってきた人物なのだ。
 初姫の体に宿っていた意識は紗依のものであるから、実質的に命を狙われたのは紗依ということになる。
 この人が怖かった。
 いつ襲われるかはらはらしながら山道を逃げ続けた。
 長い髪の毛が風をはらんで流れ、琥珀色の目で見据えられたときなど、生まれて初めて自分は殺されてしまうのかもしれないという恐怖を覚えた。
 霞丸はさながら死を運んでくる使者のように感じられた。
 だが。

「ぐぅっ・・・」

 目の前でうめく霞丸を前にしていると、命を狙われていたことさえ忘れそうになる。
 同じ人物とは思えなかった。
 この人はまだ、闘い続けているのだと思った。
 望月藩の騒動は終わっている。
 姫は助かり、そこに加わった人々も生き残った。
 首謀者である人物ももうこの世にはいない。
 再びあの藩には平穏が訪れたのだ。
 だが、その中にあって霞丸は取り残されている。
 彼は救われてはいない。
 いまだ亡き主人の影にうなされている。
 もしかしたら、これまでもずっとそうだったのかもしれない。
 今は治基の影に追われているが、それ以前にも何か得体の知れない影に追われ続けてきたのではないだろうか。
 影に追われて救いを求め、見つけたと思った救いは道を踏み外して、今度はその影に追われている。
 どうしてこの人は救われないのだろう。

「・・・・・・」

 紗依は霞丸の手を握った。
 この手に殺されかけたという思いは、何故か浮かんでこなかった。
 かわいそうだとか哀れだとか、そういう思いもなくて、ただ「どうして?」という疑問だけがある。
 それは先ほど紗依が感じた疑問とおんなじだった。
 気がつくと紗依は言い聞かせるように同じことを繰り返していた。

「大丈夫。あなたは悪くないから・・・」






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