悪夢の果て
7
またあの影だ、と霞丸は思った。
毎夜うなされるあの大きな暗い塊が、治基と重なるようになったのはいつからだろうか。
大きな口を開いて自分を飲み込まんとしているそれから、霞丸は必死に逃げていた。
だが、いつでもそれは確実に霞丸との距離を縮めてくる。
まるで懸命に逃げ続ける彼をあざ笑うかのようにゆっくりと、だが容赦なく。
いつものことと言えばいつものことに違いなかった。
霞丸が毎夜、その大きな塊に怯え、恐怖を感じていることも、またいつものことだった。
「くぅっ・・・」
油断すればいつでも闇は彼を飲み込もうとする。
一瞬たりとも気を抜けない緊張感が、額に冷たい汗をにじませた。
いつ終わるとも知れないこの塊との戦い。
いつまでこんな影に追われ続けなければならないのだろうか。
ふと浮かんだ疑問に気をとられたために、闇が急激に近づいてきたことに気づくのが遅れた。
「! しまっ・・・」
もはや逃れる暇はなかった。
襲い掛かってきたものに、霞丸は残った一本の腕で顔を覆うことしか出来なかった。
闇に飲み込まれるとは、どういうことを意味しているのだろう。
それに取り込まれてはいけないという思いが今まで強く、取り込まれてしまったあとはどうなるのかということは、全然考えてもみなかったことだ。
目を閉じた霞丸は来るべき変化を、身を硬くしながらじっと待った。
「・・・・・・?」
だが、いくら待っても変化など起きない。
いぶかしんで霞丸が目を開けると、そこには目を疑う光景が広がっていた。
「なっ・・・?」
白い世界。
霞丸がそう感じたのは、辺り一面が霧に覆われているせいだろう。
一寸先も見えない不透明な世界。
これがあの暗い塊の正体だったのか、と思いをめぐらせたが、すぐに首を振る。
いや、違う。
あの塊は確かに自分を闇の中へ引きずり込むような、そんな類のものだった。
こんな生易しい世界へ導いてくれるはずがない、と何故か確信をもってそう言えた。
追われ続けていたものの中ではないとすると、果たしてここはどこなのだろうか。
そのとき、白いベールの向こうに人影が見えた。
「誰だ?」
霞丸が近づこうとすると、その影は逃げるように背を向けて霧の向こうに消えてしまった。
だが、一瞬見えたその人物の名を、霞丸は呟いていた。
「・・・紗依?」
霞丸はゆっくりと目を開けた。
辺りはまだ闇に包まれている。
だが真夜中のような暗さではない。
夜が明けようとしているのだろう。
だんだんと明るみを帯びた中に、無意識のうちに紗依を探していた。
彼女はすぐに見つかった。
「なっ・・・?」
探すまでもない。
目の前にいたのだから。
「何故・・・」
昨日は確か、寝入ってしまった紗依に布団をかけてやった。
よほど疲れてしまったのか、そのまま夕食もとらずに眠り続けていたはずだ。
それなのに。
紗依は何故か霞丸の傍らに転がっていた。
冬が迫ってきている今時分、夜も冷え込むはずなのに紗依は布団もかけていなかった。
「馬鹿か!」
あわてて霞丸は身を起こすと、そのときになってもう一つの異変に気がついた。
「これは・・・」
自分の左手に、しっかりと彼女の指が絡まっている。
寝入っているはずの彼女の指は、別に意識でも持っているかのように、霞丸の唯一の手を握って離さない。
「ずっと、こうして・・・?」
霞丸は紗依に視線を向けた。
規則正しい寝息がかすかに聞こえる以外は、昼間の彼女と変わりない。
「!」
霞丸は器用に体をずらして、紗依を自身の布団の中に引き入れる。
つながったままの手が固く結ばれていて、離れそうもない。
その束縛が霞丸には心地良かった。
ぴたりと寄り添うと、いっそう彼女の体が冷えていることが分かる。
「・・・・・・」
先ほどの夢、やはりあの霧の中にいたのは紗依だったのだ。
暗闇の中、障子から漏れる月の光の下にある彼女の顔を眺めながら、霞丸は確信した。
闇の中にいざなわれてそのまま深い地獄に堕ちていってもおかしくなかった自分に、差し出された小さな希望の光。
離してはならない、と本能的に思った。
理由など、いまだに分からない。
何故この娘から目が離せないのか。
何故自分はこれほど娘を欲しているのか。
霞丸はそっと身をかがめた。
紗依の匂いがふわりと鼻先を掠める。
女の匂いは初めてではないのに、鼓動はまるで初めて女人に触れる童子のように騒ぎ立てている。
また疑問が増えた。
何がこんなに自分の胸を騒がせるのか。
本当に分からないことだらけだ。
だが、一つだけ分かることがある。
つながれた手をそっと振って、紗依を起こさぬよう器用に彼女を仰向けにすると、
「――――」
誘われるように、無防備な唇に口付けを落とした。
何の抵抗もなく受け入れられたそれが、霞丸のささくれ立った心を優しく癒していく。
「う・・・ん・・・」
苦しかったのか、紗依がかすかな声を立てた。
だがそれは、霞丸の行動を止めるには至らなかった。
彼女の呼吸さえ逃したくないのか、さらに強く唇を押し当てる。
自分がこのような行動をとっているのか。
霞丸の中には相変わらず疑問は多い。
でも。
――――この娘だけは手放したくない。
そんな思いが急速に育っていることだけは、確実だった。