悪夢の果て
8
「・・・・・・ふう」
することがなくて、紗依は今日何度目かのため息をついた。
「お頭――――霞丸殿は、盗まれたものを取り返しにいかれました。あなたにはここで待っていてもらうようにと」
紗依が目を冷ましたのに合わせて、朝食を運んできたこの料理屋の主人は、それだけ言うとさっさと階下へ戻っていってしまった。
朝食をいただいて食器を返しに行ったら、主人はひどく驚いた様子で、妙に恐縮していた。
することもないので店の手伝いを申し出たが、それは出来ないと固く断られてから、紗依はぼんやりと与えられた一室で何をするでもなく時を過ごしている。
店屋なのだから色々忙しいと思うのだが、昼頃になっても客らしい声は聞こえてこなかった。
この店の経営は大丈夫なのかな、なんておせっかいなことも考えてみる。
「はあ」
目が覚めて霞丸はいなかった。
もしかしたら置いていかれたのかもしれない、と思わないでもない。
だが正直、霞丸と顔を合わせなくてほっとしていた。
「・・・・・・」
紗依は自分の唇に指を当てた。
そこに触れられた熱に、顔が熱くなっていく。
今感じているのは自分の指の温かさではない。
今までふれたことのない他人の熱がまざまざと蘇ってきて、紗依は思い切り頭を振った。
「もう・・・! あんな夢を見るなんて」
自分の頭をぽかぽか叩くが、唇の感触は消えるどころかますます紗依の動揺を助長させる。
昨日の夜、霞丸の手を握ったところまでは覚えているのだが、それ以上が思い出せない。
どうやら完全に寝入ってしまって、気がついたら自分のではなく彼の布団の中で寝ていた。
霞丸が移動させてくれたのだろう。
あきれてため息をつく彼の姿が容易に想像できた。
一晩側にいたからなのだろうか。
「紗依」
「――――っ!」
夢の中で自分の名をささやいた霞丸の低い声を思い出して、紗依はいたたまれなくなって両手で真っ赤になった頬を押さえた。
昨夜はやけに生々しい夢を連続で見た。
しかも両方に霞丸が登場するのだから驚きだ。
一つ目は彼に殺される夢。
そしてもう一つは。
「紗依」
霞丸が初めてまともに紗依の名前を口にしたところから始まった。
いつもは涼やかな声なのに、そのときは妙に熱がこもっていて、そんな声に導かれて紗依が気がつくと・・・・・・。
「!?」
唇に温かいものが押し当てられた。
気のせいかと思って薄く目を開けると、すぐ近くに霞丸の顔があってはっと息を飲んだ。
「か・・・すみ、まる・・・さん・・・?」
呆然として名を呼ぶと、霞丸も我に返ったように目を見開いた。
互いに相手の目をじっと見つめあう時間が、どれほど続いただろうか。
突然霞丸の大きな手が、紗依の目を覆った。
「何?」
急に目をふさがれて戸惑う紗依の耳に、さらに混乱を招く呟きがささやかれる。
「これは夢だ」
「え?」
どういうことかと聞き返そうとした唇が、言葉を発する前に塞がれた。
強引に触れてきた熱は、唇を通して紗依の体を熱くさせる。
きっと顔が真っ赤になっていると紗依は思った。
飽くことなく口付けられているうちに、反射的に逃げていた意識が、自然と彼に傾き始めている。
今まで命を狙われていて、しかもまともに会話したのは昨日が初めてだというのに。
こんなことをする霞丸も不思議だったが、何の抵抗もなく受け入れている自分も驚きだった。
「これは夢なんだ」
口付けの合間に、霞丸は呪文のようにそう繰り返した。
息が上がってしまって苦しかったのか、それとも目覚めが近かったのか。
だんだんと紗依の意識が遠のいていく。
しかし構わず彼は続けた。
「だから、今起こっていることはすべて忘れて構わない。だが――――」
そのあと、霞丸が何か大切なことを言ったように思う。
耳を疑ってしまうような何か重大な一言。
けれど、夜が明けて目を覚まして考えてみても、まったく思い出せなかった。
「はあ・・・なんであんな夢見たんだろ・・・」
思い出すだけでも恥ずかしい。
「私、欲求不満なのかな・・・?」
あんな夢を見てしまうのだから。
もう一度霞丸の唇の感触を思い出して、紗依は一人真っ赤になった。
もうすぐ日が暮れる。
霞丸はまだ帰ってきていない。
そんなに手間取っているのだろうか。
それとも何かあったとか。
結局一日中何もすることがなく、ただ時間を過ごしていた紗依は、気がつくと霞丸のことばかり考えていた。
私のペンダントはもう売られてしまっているのかな。
それを一生懸命探してくれているというなら、とても申し訳ない。
やっぱりあとを追うべきだったかもしれない。
あれこれと考えていると、階段を上ってくる足音にはっとした。
足音の主は紗依がいる座敷の前で止まると、勢い良くふすまを開けた。
「霞丸さん!」
現れた人物の顔を見て笑顔を見せた紗依だが、彼の体のいたるところにある傷を見て、顔を真っ青にし慌てて彼に駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
そんな質問をして、自分の考えの足りなさに情けなくなった。
大丈夫なはずない。
こんなに怪我をしているのだから。
「私、お店の人に頼んできます。傷の手当てを・・・」
「構わない」
そう言って霞丸は無造作に左手を突き出した。
そこには紛れもない、昨日盗まれたはずのペンダントがあった。
「これのために、こんなに・・・」
確かに取り返す協力をして欲しいといったのは紗依だ。
自分の力だけでは取り返せなかったのも事実。
取り返せなかった場合、一生もとの時代には戻れない。
だからどうしても、ペンダントを取り返す必要があった。
しかし、霞丸にこんな傷を負って欲しかったわけではない。
「ごめんなさい! 私・・・」
泣いてどうにかなるわけではないのに、涙があふれてくる。
こんなことが前にもあった。
初姫を守ろうとして、用心棒たちが己の命を顧みず、敵に向かっていった。
相手も、任務のために何人も傷つき、そして中には命を落としていった者もいた。
すべて紗依の目の前で行なわれたことだ。
初姫には守られる価値はあったと思う。
何と言ってもお姫様、望月藩にはなくてはならない存在だ。
けれど自分は?
自分はそんなに価値のある人間だろうか。
みんなを傷つけてまで、守ってもらうような・・・。
逃亡中、紗依はずっと考えていた。
初姫が生き延びるためには、自分が死ぬわけにはいかない。
そのためには守ってもらうことが必要だった。
だから、守ってもらっているのは自分のためではなく、初姫のためだと、そう言い聞かせながら逃亡を続けていた。
それで割り切ることが出来た。
けれど今は違う。
「ごめんなさい」
自分のせいで霞丸が傷ついてしまった。
どう考えても自分が原因だった。
紗依は強く自分を責めた。
そんな彼女に何を思ったのだろう。
霞丸は静かに口を開いた。
「気にするな。俺が勝手に怪我をしただけだ」
ほら、と言って急かすようにペンダントを紗依の目の前で揺らす。
鎖が絡みついている左手にも、刀傷を負っていた。
紗依は手を伸ばして、ペンダントではなく、傷だらけの左手を握った。
「ごめんなさい・・・」
「謝るな。対価はちゃんと頂くんだから」
「え?」
ふわり、と体が浮いた。
何――――?
衝撃はなかった。
足を払われバランスを崩した紗依は、背中を霞丸の腕に支えられて、そっと畳の上に横たえられた。
瞬きをする間に、紗依の視界は一変した。
すぐ近くに霞丸の顔が迫っている。
紗依は昨夜の夢を思い出して、かっと顔を赤く染めた。
「あの・・・霞丸さん・・・?」
まるで夢の再現のようだ。
戸惑いながら彼を見上げると。
「おとなしくしていろ。これを返して欲しかったらな」
恐ろしく無表情の霞丸が、指に絡まっていた鎖をはずし、部屋の隅へとペンダントを滑らせた。
自然とペンダントの行方を追っていた紗依は、霞丸の動きに気がつかなかった。
「っ!?」
強引に両手首を掴まれたかと思うと、頭の上で畳に押し付けられた。
きりきりと食い込む長い指に顔が歪む。
そんな彼女を見下ろしながら、霞丸はすっと顔を近づけてきた。
「任務遂行のあかつきには、それなりの報酬が必要だ。お前は金を持ってはいないだろう? だったらその身で払ってもらうしかない」
「!」
ようやく彼が言わんとしていることを理解した紗依は、身をこわばらせた。
だが、恐れは浮かんでこなかった。
それが生まれる前に、紗依は気がついてしまったのだ。
――――震えている・・・。
紗依の手首を掴む霞丸の手が、近くに迫っている目が、感情を押し殺した声が。
すべてが震えているように感じられた。
何故かは分からない。
「霞丸さん・・・」
何かあったんですか、という紗依の問いを押しのけて、霞丸は吐き捨てるように声を荒げる。
「逃げようとすれば、お前を殺す!」
「!」
きっと、あの逃亡劇のときだったら、この状況は絶望しか浮かばなかっただろう。
霞丸は死を引き連れて追いかけてきた。
そんな男に捕まってはもはや自分の命の短いことを嘆くしかない。
しかし、今の紗依にはそんな考えなど浮かんでこなかった。
「分かりました」
自分でも驚くほど冷静に彼を見返す。
自分から言い出したことなのに、素直に従った紗依を、霞丸は目を見開いてじっと見下ろしてきた。
紗依は重ねて言う。
「良いですよ・・・? あなたがそうしたいと言うなら、私は逃げたりしません」
それが何を意味するのか、分かっていたつもりだ。
ペンダントを取り返すために何かあったのは、彼の体に付けられた傷を見ればすぐに分かる。
確かに何か報酬を払えというのは納得できた。
だから彼の言葉に従う――――そう説明できれば簡単だったが、実際は違う。
「逃げれば殺す」
先ほどの彼の発言は、言葉だけなら立派な強迫だ。
だがその声はやはり震えていて、悲痛な響きを持って紗依の心をえぐった。
紗依は昨夜のことを思い出した。
悪夢にうなされていた霞丸。
かつての主の影に苦しんでいた彼の姿が、逃亡劇が終わってなおこの江戸時代に取り残された自分に重なって、そのせいもあってなのか、彼が救われていないのが不条理なことのように思えた。
彼を救ってあげたいなど、大それたことは言えない。
それだけの力があるとは残念ながら思えなかった。
――――だから、せめてこの人を受け入れてあげたい。
それが霞丸のためになることなのかは分からないが。
拒むことなど、出来ない。
紗依は呆然とする霞丸に、いつの間にか自由になった両手を伸ばした。
「私はもう、あなたから逃げません。どうぞ、あなたの好きなように・・・」
「!」
紗依の言葉にはじかれて、霞丸は彼女の首筋に唇を載せた。
この先のことを思うと、怖くないとは言い切れなかった。
それでも。
「私はあなたを拒まないですから・・・」
紗依は霞丸の頭をそっと撫でながら、何度も何度も繰り返した。