悪夢の果て 







「ふう、手間をかけさせる」

 霞丸はうんざりしたようにそう呟くと、前髪を書き上げた。
 その手には昨日奪われた紗依のペンダントがあった。
 意外と手間取ったことに苛立ちが浮かぶ。

 夜明けとともに宿を出て、部下からの情報にあった長屋に忍び込んだ霞丸は、押入れの中にあった火鉢の中からペンダントを見つけ出した。
 灰に埋もれてはいたが、とろりとした緑色の石には傷一つない。
 無事に見つかったことに、思いのほか喜びを覚えた。
 ペンダントが無事に返ってきたときの紗依の喜ぶ顔を想像したら、苛立ちなどどこかへ吹き飛んでしまったのだ。

 早く帰って彼女に返してやろう。
 長居は無用だ。
 さっさと長屋をあとしにしようときびすを返したとき。

「待て」

「!」

 長屋の入り口を囲むように、複数の侍が霞丸の行く手を阻んだ。
 気配を一切感じなかった己に舌打ちしつつ、霞丸はすっと表情を消した。
 その侍たちは皆身なりが良い。
 急いできたのか足元が砂まみれであったが、それでも不衛生な感じはない。
 どこかに仕官しているものたちであるのはすぐに分かった。

 だが、何故そんな奴らがこんな長屋に?

 疑問を解決できずに侍たちを見渡した霞丸は、見知った顔を見つけて瞠目した。

「お前たちは・・・」

 ずらりと並んだ一団の中で、圧倒的な存在感を放つ二人組みがいた。
 男のほうが霞丸を見るや顔色を変え、傍らの少女を自分の後ろにかばう。

「お前は、風魔霞丸!? 姫、お気をつけください!」

「良い、宗重。大丈夫じゃ」

 少女はそう言って、男の隣に歩み出た。
 望月藩後継者、初姫。
 霞丸の脳裏にその名が浮かぶ。
 この姫をめぐって起こった一騒動が、走馬灯のように駆け巡る。
 こうして主を失い、そしてなお主の影に悩まされ続けているのは、本をただせばこの姫に原因があった。

 だが、初姫を恨む気持ちはない。
 この姫が引き金であったとしても、そして姫の隣に控える筑波宗重が主の敵だとしても、もはやあだ討ちなどという思いは浮かばなかった。
 あの事件のことは、もう終わったのだ。

「おぬし、その首飾りをどうするつもりじゃ」

「どうとはおかしなこと。持ち主に返すまで」

「持ち主・・・? おぬし、もしや紗依を知っておるのか?」

「何!?」

 何故この姫が紗依のことを知っているのだろう。
 さっと顔色を変えた霞丸に、初姫も表情を険しくさせた。

「おぬし、紗依に何をした? 無事でいるのであろうな!?」

「何だと・・・?」

 つかみ掛からん勢いの初姫を抑えるように、宗重が彼女を自分の背中へ押し込める。

「姫、危のうございます!」

「ええい、紗依の一大事に黙っていられるか!」

 そんなやり取りをしている二人には目もくれず、霞丸の心の中は嵐のように吹き荒れている。
 何故この二人が紗依のことを知っているのだろう。
 そのときになって、霞丸ははっとした。
 そういえば、あの時・・・。
 彼の脳裏に、出会ったときの紗依の言葉が突然蘇った。

「風魔、霞丸・・・?」

 思えばあのとき、何故彼女は初対面であるはずの自分の名前を知っていたのか。
 そのときには疑問には思ったものの、それ以上追求したりはしなかった。
 しかし、よくよく考えてみればやはりおかしなことだ。

「紗依は、俺を知っていた・・・?」

 しかも、どうやら初姫の知り合いらしい。
 初姫の知り合いということは、紗依は知っていたはずだ。
 霞丸が初姫の命を狙っていたということを。
 そんな者に、何故のこのことついてきたりしたのか。
 霞丸ははっとして、自分の手の中にあるペンダントに視線を落とした。

 ――――これ、か?

 紗依はこの首飾りに固執していた。
 だから、これを取り返すために、知り合いの敵である男についてきたというのか。

「っ!」

 霞丸はぎりっと唇をかみしめた。

 ――――だとすれば、俺はまんまと利用されていたというわけか。

 頼りなさそうにしていたのも、親切そうにしていたのも、全部このペンダントを取り返すため・・・。

「ええい、あいつをとらえよ! ペンダントと紗依を取り返すのじゃ!」

 初姫の声に、長屋を取り囲んでいた侍たちが一斉に抜刀する。
 だが、霞丸には関係なかった。

「は・・・ははは!」

 突然笑いがこみ上げた。
 このように大切に思われているあの少女を無理矢理奪ったら、目の前の者たちはどう思うだろうか。
 それを思うとおかしくてたまらなかった。
 自分を利用していたあの少女。
 だったら、今度はこちらが仕掛ける番だ。
 霞丸は唯一の入り口にひしめく、刀を構えた者たちに、何のためらいもなく突っ込んでいった。







 望月藩の者たちをまくのに、意外と時間がかかってしまった。
 思いの外傷を負って部下の店に戻ると、店番をしていた部下が目を瞠ったくらいだから、きっと軽い傷ではなかったのだろう。
 だが、手当てをするといった部下を振り切って、霞丸は足早に二階に向かった。
 あの少女が待っているはずの部屋のふすまを開ける。

「霞丸さん!」

 霞丸を見た途端、紗依が近づいてきた。
 傷だらけの姿に顔色を変える。

「大丈夫ですか?」

 そんな風に心配しているふりをして。

「私、お店の人に頼んできます。傷の手当てを・・・」

「構わない」

 内心、ほくそ笑んでいるのだろう。

「これのために、こんなに・・・」

 首飾りはこうして、取り返してきたのだから。
 全ては思い通りだろう?

「ごめんなさい! 私・・・」

 そんなに泣きそうな顔をしても駄目だ。
 もう、そんな顔に騙されたりしない。

「ごめんなさい」

「気にするな。俺が勝手に怪我をしただけだ」

 ほら、と言って急かすようにペンダントを紗依の目の前で揺らす。
 このペンダントをとれば良い。
 その瞬間、お前の全ては俺に奪われる。
 暗い思いを抱えている霞丸に気がつくことなく、紗依は手を伸ばして、ペンダントではなく、傷だらけの左手を握った。

「ごめんなさい・・・」

「謝るな。対価はちゃんと頂くんだから」

「え?」

 紗依が左手を握ったことは意外だったが、そんなことは構わない。
 霞丸は紗依の足をそっと払い、畳の上に倒した。

「あの・・・霞丸さん・・・?」

「おとなしくしていろ。これを返して欲しかったらな」

「っ!?」

 強引に両手首を掴み、頭の上で畳に押し付ける。
 手首が痛かったのか、紗依の顔がしかめられた。
 だが、霞丸の心を動かすには至らなかった。
 彼女を見下ろしながら、霞丸はすっと顔を近づける。

「任務遂行のあかつきには、それなりの報酬が必要だ。お前は金を持ってはいないだろう? だったらその身で払ってもらうしかない」

「!」

 瞬間、紗依は、身をこわばらせた。
 それはそうだろう。
 計画はうまくいったと確信した彼女は、まさか迫られるとは思っていなかったはず。
 霞丸には、驚く紗依の顔は愉快だった。

 だが、同時に、自分が震えていることに気がついた。
 何故なのかは分からない。
 紗依に裏切られたと思ってからは、怒りが先行していて、ただ紗依のすべてを奪ってやろうという思いしかなかった。
 それなのに、実際紗依を前にしたら、怒りが薄らいでいったのだ。
 代わりに浮かんだのが、彼女に対する不安・・・。

「霞丸さん・・・」

 紗依が何かを言おうとしたが、その先を聞いては、自分の中で何かが崩れてしまいそうだった。
 霞丸は思わず大きな声をあげていた。

「逃げようとすれば、お前を殺す!」

「!」

 そうだ。
 霞丸は気が付いてしまった。
 自分は、紗依に拒まれることを恐れている、ということに。
 無理矢理脅しておけば、拒まれない。
 拒まれたとしても、逃がしてやることなどできない。
 嫌がられても、泣かれても、どんなに彼女が抵抗しようと、無理矢理彼女を奪ってやる。
 それは恨みからではない。
 むしろ、彼女を自分のものにしたいという欲求から・・・。
 そんな霞丸の耳に、信じられない言葉が届いた。

「分かりました」

 何・・・?
 紗依の声は静かだった。
 恐れは欠片も感じられない。あれほど脅したというのに。
 霞丸は目を見開いて、彼女をじっと凝視する。
 それに構わず、紗依は重ねて言う。

「良いですよ・・・? あなたがそうしたいと言うなら、私は逃げたりしません」

 この娘は、自分の言っている言葉の意味が分かっているのか?
 これから何をされるのか、知らないわけではあるまい。

 信じられない発言は続く。
 紗依は呆然とする霞丸に、いつの間にか自由になった両手を伸ばした。

「私はもう、あなたから逃げません。どうぞ、あなたの好きなように・・・」

「!」

 紗依の言葉にはじかれて、霞丸は彼女の首筋に唇を載せた。

 何故?
 何故抵抗しない?
 どうしてそんなに簡単に受け入れるのか。
 おまえは俺を利用しているだけではなかったのか?

 疑問はたくさんあった。
 だが。

「私はあなたを拒まないですから・・・」

 その瞬間、霞丸の頭は真っ白になり、思考の全てが紗依に奪われた。








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