悪夢の果て
9
「ふう、手間をかけさせる」
霞丸はうんざりしたようにそう呟くと、前髪を書き上げた。
その手には昨日奪われた紗依のペンダントがあった。
意外と手間取ったことに苛立ちが浮かぶ。
夜明けとともに宿を出て、部下からの情報にあった長屋に忍び込んだ霞丸は、押入れの中にあった火鉢の中からペンダントを見つけ出した。
灰に埋もれてはいたが、とろりとした緑色の石には傷一つない。
無事に見つかったことに、思いのほか喜びを覚えた。
ペンダントが無事に返ってきたときの紗依の喜ぶ顔を想像したら、苛立ちなどどこかへ吹き飛んでしまったのだ。
早く帰って彼女に返してやろう。
長居は無用だ。
さっさと長屋をあとしにしようときびすを返したとき。
「待て」
「!」
長屋の入り口を囲むように、複数の侍が霞丸の行く手を阻んだ。
気配を一切感じなかった己に舌打ちしつつ、霞丸はすっと表情を消した。
その侍たちは皆身なりが良い。
急いできたのか足元が砂まみれであったが、それでも不衛生な感じはない。
どこかに仕官しているものたちであるのはすぐに分かった。
だが、何故そんな奴らがこんな長屋に?
疑問を解決できずに侍たちを見渡した霞丸は、見知った顔を見つけて瞠目した。
「お前たちは・・・」
ずらりと並んだ一団の中で、圧倒的な存在感を放つ二人組みがいた。
男のほうが霞丸を見るや顔色を変え、傍らの少女を自分の後ろにかばう。
「お前は、風魔霞丸!? 姫、お気をつけください!」
「良い、宗重。大丈夫じゃ」
少女はそう言って、男の隣に歩み出た。
望月藩後継者、初姫。
霞丸の脳裏にその名が浮かぶ。
この姫をめぐって起こった一騒動が、走馬灯のように駆け巡る。
こうして主を失い、そしてなお主の影に悩まされ続けているのは、本をただせばこの姫に原因があった。
だが、初姫を恨む気持ちはない。
この姫が引き金であったとしても、そして姫の隣に控える筑波宗重が主の敵だとしても、もはやあだ討ちなどという思いは浮かばなかった。
あの事件のことは、もう終わったのだ。
「おぬし、その首飾りをどうするつもりじゃ」
「どうとはおかしなこと。持ち主に返すまで」
「持ち主・・・? おぬし、もしや紗依を知っておるのか?」
「何!?」
何故この姫が紗依のことを知っているのだろう。
さっと顔色を変えた霞丸に、初姫も表情を険しくさせた。
「おぬし、紗依に何をした? 無事でいるのであろうな!?」
「何だと・・・?」
つかみ掛からん勢いの初姫を抑えるように、宗重が彼女を自分の背中へ押し込める。
「姫、危のうございます!」
「ええい、紗依の一大事に黙っていられるか!」
そんなやり取りをしている二人には目もくれず、霞丸の心の中は嵐のように吹き荒れている。
何故この二人が紗依のことを知っているのだろう。
そのときになって、霞丸ははっとした。
そういえば、あの時・・・。
彼の脳裏に、出会ったときの紗依の言葉が突然蘇った。
「風魔、霞丸・・・?」
思えばあのとき、何故彼女は初対面であるはずの自分の名前を知っていたのか。
そのときには疑問には思ったものの、それ以上追求したりはしなかった。
しかし、よくよく考えてみればやはりおかしなことだ。
「紗依は、俺を知っていた・・・?」
しかも、どうやら初姫の知り合いらしい。
初姫の知り合いということは、紗依は知っていたはずだ。
霞丸が初姫の命を狙っていたということを。
そんな者に、何故のこのことついてきたりしたのか。
霞丸ははっとして、自分の手の中にあるペンダントに視線を落とした。
――――これ、か?
紗依はこの首飾りに固執していた。
だから、これを取り返すために、知り合いの敵である男についてきたというのか。
「っ!」
霞丸はぎりっと唇をかみしめた。
――――だとすれば、俺はまんまと利用されていたというわけか。
頼りなさそうにしていたのも、親切そうにしていたのも、全部このペンダントを取り返すため・・・。
「ええい、あいつをとらえよ! ペンダントと紗依を取り返すのじゃ!」
初姫の声に、長屋を取り囲んでいた侍たちが一斉に抜刀する。
だが、霞丸には関係なかった。
「は・・・ははは!」
突然笑いがこみ上げた。
このように大切に思われているあの少女を無理矢理奪ったら、目の前の者たちはどう思うだろうか。
それを思うとおかしくてたまらなかった。
自分を利用していたあの少女。
だったら、今度はこちらが仕掛ける番だ。
霞丸は唯一の入り口にひしめく、刀を構えた者たちに、何のためらいもなく突っ込んでいった。
望月藩の者たちをまくのに、意外と時間がかかってしまった。
思いの外傷を負って部下の店に戻ると、店番をしていた部下が目を瞠ったくらいだから、きっと軽い傷ではなかったのだろう。
だが、手当てをするといった部下を振り切って、霞丸は足早に二階に向かった。
あの少女が待っているはずの部屋のふすまを開ける。
「霞丸さん!」
霞丸を見た途端、紗依が近づいてきた。
傷だらけの姿に顔色を変える。
「大丈夫ですか?」
そんな風に心配しているふりをして。
「私、お店の人に頼んできます。傷の手当てを・・・」
「構わない」
内心、ほくそ笑んでいるのだろう。
「これのために、こんなに・・・」
首飾りはこうして、取り返してきたのだから。
全ては思い通りだろう?
「ごめんなさい! 私・・・」
そんなに泣きそうな顔をしても駄目だ。
もう、そんな顔に騙されたりしない。
「ごめんなさい」
「気にするな。俺が勝手に怪我をしただけだ」
ほら、と言って急かすようにペンダントを紗依の目の前で揺らす。
このペンダントをとれば良い。
その瞬間、お前の全ては俺に奪われる。
暗い思いを抱えている霞丸に気がつくことなく、紗依は手を伸ばして、ペンダントではなく、傷だらけの左手を握った。
「ごめんなさい・・・」
「謝るな。対価はちゃんと頂くんだから」
「え?」
紗依が左手を握ったことは意外だったが、そんなことは構わない。
霞丸は紗依の足をそっと払い、畳の上に倒した。
「あの・・・霞丸さん・・・?」
「おとなしくしていろ。これを返して欲しかったらな」
「っ!?」
強引に両手首を掴み、頭の上で畳に押し付ける。
手首が痛かったのか、紗依の顔がしかめられた。
だが、霞丸の心を動かすには至らなかった。
彼女を見下ろしながら、霞丸はすっと顔を近づける。
「任務遂行のあかつきには、それなりの報酬が必要だ。お前は金を持ってはいないだろう? だったらその身で払ってもらうしかない」
「!」
瞬間、紗依は、身をこわばらせた。
それはそうだろう。
計画はうまくいったと確信した彼女は、まさか迫られるとは思っていなかったはず。
霞丸には、驚く紗依の顔は愉快だった。
だが、同時に、自分が震えていることに気がついた。
何故なのかは分からない。
紗依に裏切られたと思ってからは、怒りが先行していて、ただ紗依のすべてを奪ってやろうという思いしかなかった。
それなのに、実際紗依を前にしたら、怒りが薄らいでいったのだ。
代わりに浮かんだのが、彼女に対する不安・・・。
「霞丸さん・・・」
紗依が何かを言おうとしたが、その先を聞いては、自分の中で何かが崩れてしまいそうだった。
霞丸は思わず大きな声をあげていた。
「逃げようとすれば、お前を殺す!」
「!」
そうだ。
霞丸は気が付いてしまった。
自分は、紗依に拒まれることを恐れている、ということに。
無理矢理脅しておけば、拒まれない。
拒まれたとしても、逃がしてやることなどできない。
嫌がられても、泣かれても、どんなに彼女が抵抗しようと、無理矢理彼女を奪ってやる。
それは恨みからではない。
むしろ、彼女を自分のものにしたいという欲求から・・・。
そんな霞丸の耳に、信じられない言葉が届いた。
「分かりました」
何・・・?
紗依の声は静かだった。
恐れは欠片も感じられない。あれほど脅したというのに。
霞丸は目を見開いて、彼女をじっと凝視する。
それに構わず、紗依は重ねて言う。
「良いですよ・・・? あなたがそうしたいと言うなら、私は逃げたりしません」
この娘は、自分の言っている言葉の意味が分かっているのか?
これから何をされるのか、知らないわけではあるまい。
信じられない発言は続く。
紗依は呆然とする霞丸に、いつの間にか自由になった両手を伸ばした。
「私はもう、あなたから逃げません。どうぞ、あなたの好きなように・・・」
「!」
紗依の言葉にはじかれて、霞丸は彼女の首筋に唇を載せた。
何故?
何故抵抗しない?
どうしてそんなに簡単に受け入れるのか。
おまえは俺を利用しているだけではなかったのか?
疑問はたくさんあった。
だが。
「私はあなたを拒まないですから・・・」
その瞬間、霞丸の頭は真っ白になり、思考の全てが紗依に奪われた。