悪夢の果て 



10



 何やら階下が騒がしい。
 紗依ははっと身を起こした。
 すでに窓の外の空は白み始めている。
 薄明かりに照らされた部屋には、紗依一人しかいなかった。
 いるはずの彼の姿が隣になかったことで、にわかに不安が広がる。

 ――――何か、嫌な予感がする。

 慌てて身支度を整え、騒ぎの原因を突き止めるべく、重い体を引きずりながら階段を駆け下りた。

「霞丸さん?」

「来るな!」

「!?」

 恐る恐る彼の名を呼ぶ。
 すると、鋭い声が聞こえた。

「ぐっ!」

 直後うめき声が聞こえて、紗依は階段から飛び出した。

「霞丸さん!」

 そこには、信じられない光景が広がっていた。

「紗依!」

「え?」

 霞丸とは違った、自分の名を呼ぶ人物。
 その人物に、紗依は見覚えがあった。

「初姫・・・さん・・・?」

「紗依、無事であったか!」

 嬉しそうな初姫の表情。
 だが、紗依にはそれは映っていなかった。
 彼女の視線の先には、多数の侍に捕えられている霞丸がいた。

「霞丸さん!」

 紗依は初姫の横を通り過ぎると、霞丸の隣に膝をつく。

「紗依殿、危ないでござる」

 大勢の侍を従えていた宗重がそう声をかけたが、紗依には聞こえていなかった。
 傷だらけの霞丸。
 よく見ると、部屋の隅にはこの店の主人であり、霞丸の知り合いであるという男が倒れていた。

 ――――この状況は、何?

 何がなにやらわからない。
 しかし。

「ダメ! 霞丸さんに、乱暴なことをしないで!!」

「!?」

 はっきり紗依はそう言った。
 その言葉に、この場にいただれもが息をのんだ。

「紗依、何を言っておるのじゃ。こいつは・・・」

「違う! 霞丸さんは、悪い人じゃない!」

 紗依は、霞丸をとらえていた侍から彼の身を引き離すと、その場にいた全員から彼を守るように、初姫たちと正面から対峙する。
 ほとんど感情を爆発させることのなかった紗依が、きっとまなじりをあげて全員を見据えた。

「この人はまだ苦しんでいます。みんな無事に帰ってきて、あなたも助かった。事件は終わったのに、でも、霞丸さんはまだ救われていないんです!」

「紗依・・・」

「この人が悪いんじゃない! だから・・・」

 紗依の言葉は、暗い笑いにかき消された。

「ククク・・・」

 それが紗依の背後から聞こえてきたことは、彼女を含め、皆がすぐに気がついた。

「やはりお前たちは知り合いであったのだな」

 満身創痍の体を、霞丸はゆっくりと、引きずるように起き上がらせる。
 万全の状態でないのが、かえって不気味さを醸し出していた。

「霞丸さん・・・?」

 彼の様子がおかしい。
 紗依が振り返ろうとした、その瞬間。

「!」

 いきなり紗依は霞丸に羽交い絞めにされる。

「紗依!」

「紗依殿!」

 初姫と宗重はそろって、前に踏み出そうとした。
 しかし。

「動くな!」

 鋭い声を発する霞丸は、隻腕に紗依の首をとらえながら、指にはいつの間にかクナイを握っていた。
 よく手入れされた武器が、紗依の驚いた顔を映している。

「もう、猿芝居はうんざりだ。お前たち、何の目的があって俺に近づいた? 命を狙った俺を狩りに来たのか? だが残念だったな」

 暗い表情のまま、霞丸は口元を歪めた。

「お前たちがどれほどこの女を大切にしているかは知らぬが、この女はすでに俺のものだ」

「!」

 顔色を変えた初姫と宗重に見せつけるように、彼はわざと紗依の首筋に唇を寄せた。

「んっ・・・!」

 紗依の反応に満足したのか、赤く痕の付いたところに、もう一度口づけする。

「貴様!」

 宗重はカッとなって抜刀しかけた。
 が、

「やめよ、宗重!」

 初姫が一喝したことで、切りかけようとした態勢のまま、宗重は止まった。

「姫、何故です! こいつは・・・」

「黙っておれ」

 ぴしゃりと宗重の言葉を遮った初姫は、ゆったりとした足取りで、霞丸の正面に立った。
 霞丸にとっては主人の敵。
 かつては命を狙った相手だ。
 好意的な感情など、お互い一切持ち合わせていない。
 むしろ嫌悪し合う仲のはず。

「ダメ・・・!」

 紗依のかすかな呟きに、霞丸の腕は一瞬力を失い、初姫は目を見開く。

「紗依、お主は、この男を許すと申すのか?」

「この人は・・・私を助けてくれたんです。あの騒動はこの人の意思じゃない・・・大野治基の・・・っ!」

「お前、治基様の名を・・・!?」

 大野治基の名が出た途端、霞丸の表情が驚きと憎悪に再び染まる。
 それと同時に紗依の首を抱えた彼の腕の力が強まり、紗依は顔を歪ませた。

「っ! 霞丸! 良く聴けい!」

 良く通る凛とした張りのある声が、部屋中響き渡る。
 声の主である初姫は、じっと霞丸を見据えた。
 そして高らかに言い放った。

「その娘はな、わらわの影武者じゃ!」

「何・・・!?」

「あの騒動のとき、北浜城から山中を抜けて望月城に到る道のり、お主に絶えず命を狙われていたのはわらわではない、わらわの姿をしておった、紗依だったのじゃ」

「なっ!?」

 霞丸は初姫の言葉を疑うことを忘れ、紗依の顔を覗き込んだ。
 蒼白になっている彼女の顔。
 だがそれ以上蒼い顔の霞丸は、震える声で問いかける。

「それは本当なのか?」

「・・・はい」

 隠していても仕方ない。
 影武者、という言葉はきっと、

「未来から来た紗依が、本来死すべき初姫の運命を変えるために、彼女の体に乗り移ったのだ」

 という、にわかには信じがたい真実を口にして、霞丸を混乱させないようにという初姫なりの配慮だろう。
 その効果あって、霞丸は状況を飲み込んだようだ。

「お前が、あの時の姫だと・・・? まさか・・・」

「ごめんなさい。黙っていて・・・」

 ようやく首が解放されて、紗依は思わず掴まれていた部分に手を添える。
 自力ではどうなっているのか見えないが、じくじくと熱を持っていることから、きっと赤くなっているのだろう。

「私、あなたが怖かった。山の中で、いつ襲われるか分からなくて・・・」

 言うタイミングを逃していたことが、素直に口からこぼれおちる。
 死神さながらの存在に、恐怖と緊張に押しつぶされそうになる、ぎりぎりのところだった。
 きっと常に周りにいてくれた宗重をはじめ、用心棒の面々が明るく振る舞ってくれていなかったら、あの山道できっと霞丸の手にかかっていただろう。

「でも、あの辻であなたに助けられたとき、それからペンダントを取り返してくれたとき、そして夜中にうなされていたとき、それらを全部見て、あなたは悪い人ではないと思いました」

「馬鹿か・・・! 自分を殺そうとした男だぞ!? たったそれだけのことで、お前は・・・」

 霞丸はそこで言葉をのんだ。
 その先は言わなくてもわかる。
 紗依はそっと、鎖骨にある、昨夜霞丸の付けた赤い痕を押さえた。

「あの騒動が終わったら、きっと私は自分の家に帰るはずだったんです。でも、気が付いたらあの辻に立っていて・・・」

 望月藩は平和を取り戻したというのに、自分のタイムトラベルは終わってはいなかった。
 しかも今度は意識だけではなく、体まで時空を超えてしまったのだ。

「みんな丸く収まったはずなのに、私だけ取り残されたことが悲しかった・・・」

 紗依の言葉に、初姫の眉がぴくりと揺れた。
 感謝と申し訳なさが合い混じった色を浮かべた瞳が何か言いかけたが、それより早く紗依の口が動いた。

「大野治基の夢を見てうなされているあなたも、私に重なって見えたから・・・」

 だから、あなたを受け入れたいと思ったんです。
 はっきりと紗依の唇がそう告げた途端、霞丸は持っていたクナイを投げ捨て、紗依の身を強く抱きしめていた。

「お前は馬鹿だろう!」

「そう・・・でしょうか・・・?」

「まあ、それにはわらわも同感だな」

 ようやく肩の力を抜いた初姫が、苦笑を浮かべた。

「わらわは紗依に大きなカリがあるのじゃ。風魔霞丸によってお主の身が危険にさらされているのではと思ったのじゃが、これではわらわたちが悪者みたいじゃな」

「そ、そんなことないです。それより、どうして初姫さんたちがここにいるんですか?」

「ん? ああ、あの首飾りを探しておってな。その途中で霞丸とぶち当たったのじゃ」

 そこまで語ったところで、はっとして初姫は紗依の首元を見た。
 そこには霞丸が己の傷と引き換えに手にした、とろけそうな緑色の翡翠色の石の首飾りがかかっている。

「お主、この首飾り、何か変化はあったか?」

「え? いえ、特にないですけど・・・」

「紗依!」

 逼迫した初姫の様子。
 自然と紗依の表情も引き締まった。

「いいか、どうやらその首飾りの力は、あと一回が限界のようなのじゃ」

「!」

 一回が限界・・・?
 紗依の心の疑問を読み取ったように、初姫がうなずく。

「そうじゃ。一回はわらわと紗依が入れ替わったとき。あの時は互いに意識だけが飛んだな。二回目はお主が体ごと時間を飛んだとき。じゃから、これまでその首飾りは、二回力を使っていることになる」

「そうですね」

「じゃが、その不思議な力にも限界がある」

「それが次だけ?」

「うむ。わらわも少しその首飾りについて調べてみたら、力の発動には条件があるようでな」

 初姫の言うには、そろそろ力が発揮するくらいなのではということなのだ。

「帰るには次の力の発動が最後じゃ。それ以降はもう首飾りは普通の首飾りに戻るじゃろう」

「その時に・・・私は帰れるんですね」

 ――――帰ることができる。

 それはずっと望んでいたことのはずだった。
 けれど、それはすなわち。
 紗依は近くにある霞丸の顔を仰ぎ見た。
 二人の会話を聴いていて、表情を凍らせている霞丸が、紗依の気持ちを大きく揺らす。
 帰ったら、この人とは一緒にいられない。

 ――――それでも、帰りたい?

 自答した時だ。

「きゃっ!?」

「これは・・・!」

 まるでそれまでの会話を聞いていたかのように、タイミングよくペンダントが光り出した。

「紗依! これが最後のチャンスじゃ!」

 まばゆい光の中で、初姫の声がはっきりと耳に届く。

「よく考えて答えを述べよ! これを逃せば帰れなくなるぞ!」

 覚えのある感覚に包まれながらも、紗依ははっきりと感じていた。

「紗依・・・!」

 押し殺した声で自分の名を呼び、力の限り抱きしめてくる霞丸の存在を。
 ――――ああ、そっか。
 その瞬間、紗依の中での答えが、すでに出ていることを自覚した。

「私は・・・!」

 その先の答えは、あふれる光にかき消され、誰に届くこともなかった。






back    11