雨の止んだ後 〜上〜 



 今日も、後宮は穏やかなときが流れています。
 いよいよ晏都に暁が攻め入らんと迫ってきているこの情勢とは、考えられない和やかさです。


 皇帝であられる天巽様や洪謙お兄様は、すでに遷都の準備を始めていらっしゃいます。
 あくまでも、暁とは徹底抗戦の構え。


 女官である私には詳しい政局は分かりませんが、お二人や洪惇お兄様の難しいお顔を見ている限り、厳しい現状であることは良く分かります。
 それでも敢然と立ち向かう天巽様のお姿は凛々しくて、さすが第五代皇帝陛下であらせられると思います。


 ――――ですが、最近良く分からないのです。


 洪家は天巽様を皇帝に押し上げたときから、他に政敵など寄せ付けぬほど、宮廷で力を持ちました。
 あの憎き劉家も、彼らが押していた第二太子の失踪後は、求心力を失い、かつての権勢もありません。


 唯一心残りがあったとするならば、先帝陛下のご崩御までに天巽様のご即位が間に合わなかったことでしょう。
 それ以外は、私達四人の思い通りに事は進んでいました。


 最後まで処遇については異論のあった羽兎様の目の彼女の身柄も、今は私達のもとにあります。
 憎き暁が侵略してくることは許せませんが、それは徴兵や民間武官が戦えば良いこと。
 私達四人の前に立ちはだかるものは、もはやこの昊の国にはあろうはずがありませんでした。


 私はお兄様たちのため、そして天巽様のため、たとえ親友を裏切ろうとも仕方のないことと思っていました。
 私の行動に、後悔はありません。
 それは今も同じ。変わってはいません。
 ですが・・・。


「いや! おそとにだして。おうちにかえりたい」


 彼女の声に、私ははっとなりました。
 ここは後宮。決して皇帝が、そして他の誰もが足を踏み入れない場所です。
 そこにいるのは、私を含めた数人の女官と、天巽様がご即位なさるため無理やり皇后になった彼女だけ。


 すぐ隣に飛んできた毬は、彼女が投げたものです。
 私はそれを拾い上げ、ダダをこねる彼女にそっと手渡します。


「愛麗、ここがあなたのおうちなのよ。お外は怖い人が来るかも知れないから、出られないの」


 小さい童子が喜んで遊びそうな小さな手毬を、彼女が受け取りました。
 不満そうに頬を膨らませる仕草も童子のようですが、姿はまごうことなき昊の国第五代天巽皇帝陛下の皇后です。


「美蘭はわたしのことがきらいなの? わたし、いいこにしているわ。ちゃんとみんなのまえでわらっててをふったし、きらいなおやさいものこさずたべたわ。でも、おうちにもかえしてもらえないし、呂雄にもあわせてくれない」


 ぼろぼろと涙を零す彼女に、私はただおろおろとするばかりです。


「泣かないで。私はあなたが好きよ。でもね、あなたが危険な目に遭うのは嫌なの。辛抱して頂戴」

「じゃあ、呂雄と樂芳をよんできて。ふたりならきっと、きてくれるわ。きっとおうちにかえらないわたしを、しんぱいしているとおもうの」


 呂雄。
 樂芳。


 その名が出た瞬間、私はみっともなく動揺してしまいました。
 実際、彼女の口から二人の名が出ない日はありません。
 そのたびに私の心臓は、ずきりと疼痛を生みます。


「・・・呂雄と樂芳は遠い所に行ってしまったのよ。もう会えないの」


 私はそのたびに同じような答えを返すばかり。
 それを聴いた彼女が、さらに癇癪を起して泣き叫ぶと知りつつも、そう返すことしかできないのです。


 ――――呂雄。


 赤い武官服を着た、精悍な民間武官の姿は、そっと意識を向ければすぐに思い出すことができます。
 生真面目で堅物の彼は、腕の立つことでも勤勉であることでも、武官のみならず文官の間でも知られていました。


 彼女の幼馴染で、そして恋人。
 恋愛ごとにはてんで疎い二人が、ゆっくりゆっくりお互いを思う気持ちを育てていたことは、傍にいた私もよく知っています。


 ですが、それを引き裂いたのは、私達です。
 二人の間にどれほど相手を恋焦がれる思いが膨らんでいったのか、私には分かりません。
 それが、駆け落ちという形で爆発しても、可笑しくはありませんでした。


 あの武官が大怪我をしたとき、彼女はようやく彼と再会できました。
 遠い距離から眺めることしかできなかった時間の分だけ、想いは溜まって行ったのでしょう。


 そのときどのように約束がかわされたのか、私は知りません。
 だから、彼女が女官服を返してこなかったことにも、追求せずにいました。


 最も、「皇后に駆け落ちの危険あり」というのは、私が進言するまでもなく、洪謙お兄様はずっと心にとめ置かれていたのだと思います。
 洪惇お兄様を終始あの武官に張り付けていたのも、そのためでしょう。
 皇后を失えば、否、羽兎様の目を失くせば、宮廷の権威が失墜することは明らかだったのです。


 ――――結局、二人の目論見は、またしても私達の前に潰えたのでした。


 激怒した洪謙お兄様は、即座にその武官の処刑を洪惇お兄様に言い渡します。
 洪惇お兄様の方が珍しく、洪謙お兄様に落ち着かれるよう諭していました。
 それはきっと、洪惇お兄様の方が、部下である彼のことをよく知っていたからでしょう。


 洪惇お兄様は、いつかの機会にぽつりと言っていたのを覚えています。
 あの男は、将来有望な優秀な武官であると。
 洪惇お兄様も、彼に対しては思うところがあったのかもしれません。


 ですが、皇后を攫おうとした罪は重く、処刑は免れませんでした。
 彼は最期まで、彼女のことを心配していたそうです。


「俺が処刑されるのは仕方がない。皇后誘拐の罪はすべて俺にあるんだから。どうか、あいつに罪が及ぶことのないよう。そして、俺の死はあいつには伏せておいてほしい」


 今思えば、今際の際の彼は今この状況を見通していたのだと思います。
 自分が罪をかぶるのは良い。
 そして、処刑されるのも止むなし。
 でも、彼女を傷つけることだけはしないでほしい。


 本当に、彼は彼女を愛していたのでしょう。
 もし、その気持ちを少しでも斟酌できていたら、その後彼女を玉座に呼び出して、わざわざ彼の死を伝えることもしなかったでしょう。


 洪謙お兄様は、二度とこのような事態を招かぬようと、彼女を天巽様のいらっしゃる玉座へと呼び出し、彼女に小袋を渡しました。


 捕まってからは後宮に押し込められ、幾重にも厳重に警備された部屋で、捕まった武官のことをずっと考え続け、彼が無事であることを祈り続けていた彼女の目は真っ赤で、表情にも力はありませんでした。


 触れたら折れてしまう。
 私が支えていないと、彼女はその場に崩れてしまいそうでした。


 それは分かっていたはずなのに。
 私は、彼女がその小袋の中身を見てしまうのを、止めることはできませんでした。


「ひっ・・・!」


 喉を引きつらせたように声を上げた彼女が見たもの。
 それは、私ですら心臓を掴まれるようなものでした。


「あなたには見覚えがあるでしょう。国賊である武官の髪の毛ですよ」

「あ・・・ああ・・・」


 がくりと膝をつく彼女を、私はもう支えてあげられませんでした。
 ただの髪の毛ではなかったのです。
 処刑の痕跡が生々しく、その髪の毛にはべっとりと血がついていたのでした。
 それは、間違いなく彼女の最愛の彼のもので・・・。


「い、いやあああああっ!!!」


 耐えられなくなった彼女は、宮廷に響かんばかりの悲鳴を上げ、そして気を失ってしまいました。
 そのときに、彼女の心も一緒に失われてしまったのです。


「美蘭、ねえ、どうして呂雄も樂芳もとおいところへいってしまったの? どうしてわたしをおいていってしまったの? どうして?」


 何も知らない、それ故に罪深い瞳が、私をじっと見上げます。
 いつでも私は彼女の質問には答えてあげられません。
 今も首を振るだけです。


 もし、ここに、もう一人の幼馴染、樂芳がいてくれれば、事態は少しはよくなったのかもしれませんが・・・。
 彼女は知りません。


 私達の計略に掛かり、殺人鬼として捕らえられ、牢で罪を償っていた樂芳も、実はもうこの世にはいないのです。
 呂雄と彼女の駆け落ちは、洪謙お兄様の逆鱗に触れました。
 即刻呂雄を処刑しただけでは気が収まらなかったと見え、


「二度とこんな真似、起こさせないようにしないといけません」


 いつもの理知的な口調で、お兄様は牢にいた樂芳の処刑も決めてしまったのです。
 幼馴染という呂雄と同じ立場である以上、今度は彼がいつ彼女を攫われるか分からない、という理由でした。


 多分、樂芳の死を知る者は、洪家の三人だけでしょう。
 天巽様はご存じないと思います。


 樂芳の処刑は簡単でした。
 一日一度の食事に、毒を混ぜるだけで良いのですから。
 ひっそりと、誰にも知られることなく、彼は亡くなりました。


 せめてもと思い、私は彼の遺品を一つだけいただきました。
 木彫りの、兎の置物です。
 手先が器用な彼が、コツコツと刀を当て続けたことが良く分かる品でした。


 彼の死を伝えることはできませんでしたが、私はそれを彼女に渡しました。
 彼女はそれをいたく気に入り、いつでも傍においています。


 彼女の首からつり下がっているのは、最愛の恋人の遺髪を収めた小袋。
 彼女の傍らに置いてあるのは、優しい幼馴染がつくった兎の置物。
 まるで二人に見守られているようだと、そんな風にも思いました。


 きっと、私がこんなことを口にするのは許されません。
 でも、彼女に伝えたい。


 あなたは、こんなにも二人にみまもられているのだと。
 二人はどこにも行っていない。
 いつでもあなたのそばにいる。


 泣き続ける彼女に、私は心の中でそっと呟きました。







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