雨の止んだ後  〜中〜



 今日は雨。
 生糸のような細い雨が朝から降り続いていました。


 煙るような城下はしんとしております。
 華やかだった宮廷も、今はもはやその陰もありません。


 朱塗りの柱が美しい宮廷の廊下を渡っても、雨粒をたたえてしっとり輝く庭の木々の間を通っても、どなたともお顔を合わせません。
 それも今となっては仕様のないこと。


 天巽様が遷都を決意なさったのです。
 遂にこの晏都を捨て、南の鄙びた場所に臨時政府を移すというのです。
 出立は明日。
 天巽様に付き従うのは、洪謙お兄様や洪惇お兄様、そして有力な貴族方です。


 ですが、私は明日皆さまとご一緒することができません。
 女官の避難は最後なのです。
 暁の軍はもう晏都のすぐそばまで迫っております。
 女官が残れば、一時でも足止めになります。
 その間に、天巽様を逃がすと。


 いかにも洪謙お兄様らしいお考えです。
 淡々とおっしゃる洪謙お兄様のお言葉を聴きながら、私はようやく気がついたのです。
 私と彼女に、何の違いもなかったのだと。


 貴族は平民とは違う。この国の行く末を決めるのは貴族であって、平民はその意思に従っていればいい。だから、平民よりも貴族は良いものを食べ、良いものを着て、良い暮らしをする。それが当たり前。
 私はそのように学び、考え、行動してきました。


 だから、親友である彼女を裏切ったのです。
 親友だけれど、平民である彼女よりも、この国の命運がかかっている天巽様や洪謙お兄様、貴族に手を貸しました。
 たとえ恋仲を引き裂こうとも、最終的には平民である彼女に全面的に味方することはできませんでした。
 平民である彼女は、貴族である私達の意思に従うべきだと、根底では思っていたのです。


 ですが、今の状況はどうでしょう。
 貴族が貴族を切り捨てる。
 平民ならばいざ知らず、女官は立派な貴族の娘達。同じ、貴族なのです。


 長い時間をかけて、自分が同じ切り捨てられる立場に至って、私はようやく気が付きました。
 こんなのは、まちがっていると。
 ですが、気付いたところでどう仕様もありません。


「兄上、せめて美蘭だけでも連れていかれては・・・」

「そうだ、洪謙。一人増えようと構わぬではないか」


 洪惇お兄様や天巽様はそう言い添えて下さいましたが、洪謙お兄様は決してうなずきはしませんでした。
 その裏にあるのは、皇后への憎悪。
 お嫌いになっている皇后の世話役をいつまで経っても譲ろうとしない私に対しても、疎ましく思っておられるようでした。


「天巽様、洪惇お兄様、お優しいお言葉ありがとうございます。ですが、これも皇帝陛下のため。私達女官は、天巽様方を逃がすためにここに残ります」


「しかし、余は美蘭がいてくれぬと困る。一緒に来てはくれぬか」


 お優しい天巽様。
 いつだってこの方はお優しくて。
 たとえそのお優しさが私達にしか向けられていなかったのだとしても、私はこの方がやはり大好きで、そのお優しさに応えたかったのです。


「天巽様は皇帝陛下ですもの。私達女官の命とは比べ物になりませんわ。天巽様のお命をお助けできるなら、私、何の怖いこともありません」


 その言葉は、嘘ではありません。本心です。
 ただ、その本心の中に、いつもなら存在しているはずのない、皮肉が込められていたことには自分でも驚きましたが。


「・・・そうか。ここに残る武官たちに、女官たちの安全を確保するよう堅く申し渡しておく。どうか、無事に私達に追いついてきてくれ」

「はい、分かりましたわ」


 天巽様やお兄様方とお会いするのは、これが最後になるかもしれない。
 そんな予感がしていたから、多分余計な一言を言ってしまったのだと思います。
 私は天巽様、洪謙お兄様、洪謙お兄様の視線を受けながら、はっきりと言いました。


「私はずっと、愛麗と一緒におりますから」







 後宮への廊下を歩いていると、向こうから焦った表情の女官が走ってきました。


「廊下を走るなど、はしたないことです」


 いつもならそう叱っているのですが、その様子が尋常ではなかったことに、私はさっと顔を青くしました。
 その女官は後宮付きの女官です。
 私のいない間、彼女を頼むと言い置いてきた相手です。
 その女官の慌てぶりは、即彼女のことにつながります。


「どうしました。皇后の身に、なにかあったのですか?」

「め、美蘭様、どうか、お助けを! 私ではどうにもなりません」


 今にも泣きそうな女官を押しのけ、私は彼女の部屋へと走りました。
 こんなにも後宮への廊下が長いことに、そして、こんなにも女官服は走りづらいことに、初めて気が付きました。
 彼女の部屋に近づくにつれ、そこから漏れ聞こえてきた派手な音に、私は半ば事態を察しました。


「愛麗!」


 皇后であることも忘れ彼女の名を呼ぶと、部屋の真ん中で調度品を手当たり次第床に投げつけていた愛麗は、私の顔を見るなり怒りの矛先を向けました。


「美蘭のばか! どうしてわたしはいつまでたってもおうちにもかえれないの? わたし、いいこにしてるのに、呂雄にもあわせてくれない。樂芳もよんできてくれない。ふたりがとおくにいってしまったなんてうそよ。ふたりはわたしをおいていくはずないもの。みんなして、ふたりはとおいところへいってしまったというのよ。美蘭のうそつき! きらいきらいきらい! 美蘭もほかのみんなもだいきらい! 呂雄、どこにいるの? 呂雄、呂雄! わたしはここにいるのに、あいたいよ」


 それだけまくしたてると、投げつけるものもなくなったのか、彼女はその場に泣き崩れてしまいました。
 大声で泣く彼女。


 以前の彼女は我慢強くて、大声で泣くなんてしませんでした。
 それどころか、苦しい心の内をいつも自分の中に隠していました。


 私が何度裏切っても、静かにそれを受け入れて、一度だって私を罵倒したことはありません。
 その彼女の強さに、今更ながら気がつかされました。


「愛麗・・・」


 私には、すでにかける言葉がありません。


 彼女から、幼馴染を奪い。
 彼女から、一切の自由を奪い。
 そして、彼女から、最愛の恋人まで奪い。


 そうまで奪い尽くした私が、どんな言葉で彼女を慰めればよいのでしょうか。
 私はうずくまる彼女に駆け寄ると、力いっぱい彼女を抱きしめました。


「ごめんね」


 その言葉が出てきたのは、意識してのことではありませんでしたが、必然のようにも感じます。


「ごめんね、愛麗。本当にごめんなさい」
 私はあの武官のように包み込むように彼女を抱きしめることはできないけれど。
 そして、あの幼馴染のように優しい言葉を掛けることもできないけれど。


 今私の精一杯で、彼女を受け止めようと、心から思いました。
 そうすることしか、私にはできませんから。


「――――」


 どのくらい、そうしていたでしょうか。
 しゃくりあげの止まらない彼女は、泣き疲れてしまったのか、体重を私に預けてきました。
 ようやく落ち着いてくれたと思った私の耳に、信じられない言葉が聞こえてきました。


「ごめんね、美蘭。ありがとう」

「え・・・!?」


 慌てて彼女を見ましたが、すでに彼女は寝入ってしまっていました。


「ごめんね、美蘭。ありがとう」


 かつての彼女の口ぶりで告げられた言葉は、現実のものだったのでしょうか、それとも私の都合のよい空耳だったのか、それは定かではありません。
 それでも、私は涙があふれて止まりませんでした。


「謝るのは、私の方よ・・・」


 散らかった部屋の中で、彼女を抱きとめながら、私はただただ静かに涙を流していました。









 それから、気がつくと窓の外が茜色に染まっていました。
 彼女は私の腕の中で寝入ってしまっています。


 部屋は相変わらず散らかったままでしたが、割れた陶器の欠片は片付けられていました。
 いつそれが行われたのかは分かりません。


 一体今まで私は何をしていたのでしょうか。
 私の心も、ゆっくりと壊れていっているのでしょう。


 ふと、入口に人の気配を感じて、私は振り返りました。


「美蘭・・・これは・・・」


 茫然と立ち尽くしていたのは、ここへは全く今まで足も向けたことのなかった、天巽様でした。


「洪謙に言われていたのだ。後宮へは、絶対に行ってはならぬと。でも、私は明日新しい都へ遷都するにあたり、どうしても美蘭には一緒についてきて欲しくて・・・」

「それで、ここへきてしまったんですね」


 洪謙お兄様は、愛麗の心が壊れてしまったことを知っています。
 そして、それをお耳に入れたら天巽様が嘆かれることも分かっていました。
 ですから、この状況を見させないようにしていたのでしょう。


「何なんだ、この有様は。これは、皇后の仕業なのか」


 いつからいらっしゃったのか、それすら私には分かりません。
 何も知らない天巽様。
 いつだって、私達にだけしか優しさを向けて下さらなかった天巽様。


「ん・・・」


 何のお導きでしょうか。
 何の前触れもなく、むくりと愛麗が起き上がりました。


 泣きすぎて真っ赤になった眼で、天巽様を見ます。
 一瞬、天巽様がたじろいだのが分かりました。


「美蘭、このひとだあれ?」


 彼女は、記憶が幼い頃に戻っています。
 ここで知っているのは、私達女官くらい。
 洪謙お兄様のことも、洪惇お兄様のことも、そして天巽様のことも知りません。


「愛麗、この人は昊の国の皇帝陛下よ。天巽様とおっしゃるの」

「天巽さま?」


 明らかに天巽様が動揺しているのが分かりました。
 天巽様が最後にご覧になった彼女は、あの武官の彼の処刑を言い渡したときの彼女でしょう。
 心が壊れてからの愛麗は、見ていないはずです。
 これまでご自分が軟禁されている皇后を顧みなかったことへの当てつけとしては、十分すぎる効果がありました。


「皇后は、心が壊れてしまったのです。呂雄が処刑されたと聞いた、あの日から」

「あ・・・あの日から・・・?」


 天巽様はそのときの記憶にたどり着いたようで、息を飲んだ。


「あれから気を失って後宮に戻された後は、つつがなく暮らしていると洪謙から聞いていたが」

「それは、お兄様は天巽様にご心配を掛けたくなかったのですわ」


 ああ、この方は、本当に何もご存じありませんね。
 同じ宮廷内の皇后の様子さえ把握できていらっしゃらないのですから、国のことも、民のことも、分かるはずありません。


「ねえ、美蘭。天巽さまはおえらいかたなのでしょう?」

「ええ、そうよ。この国の皇帝陛下だもの」


 皇帝陛下。
 このときほど滑稽な響きを持って聞こえたことはありませんでした。
 愛麗は私をそっと押しのけて、言葉を失っている天巽様をまっすぐ見上げました。


「天巽さま、おねがいです。わたし、みんなのいうことをきいていいこにしていたわ。けれど、みんなわたしをおうちにかえしてくれないし、呂雄にも樂芳にもあわせてくれないの。呂雄はどこにいるの? 呂雄にあいたいの。こうていへいかなら、おねがいよ、呂雄にあわせてください」

「――――!」


 天巽様が、後ずさりました。
 近寄る愛麗に何を思ったのでしょうか。
 まるで亡霊でも見るようにお顔が蒼ざめていらっしゃいます。


「ねえ、へいか。こうていへいかの天巽さま。おねがいします。呂雄にあわせて」


 決して厳しい言葉ではありません。
 先ほどみたいに泣き叫んでいるわけでもありませんでした。


 それでも、真摯にまっすぐ向けられた言葉に、天巽様はお言葉を持ちませんでした。
 それはそうでしょう。
 天巽様には、愛麗にかける言葉などあろうはずないのですから。


 不思議と私の心は凪いでいました。
 洪謙お兄様が天巽様を後宮から遠ざけていた理由は分かります。
 きっと、この光景をご覧になったら、天巽様はひどく動揺されることが分かっていましたから。


 ですが、心のどこかでは、天巽様に愛麗を見せたいとも思っている自分がいました。
 凍りついてしまった天巽様に、私はそっと言葉を添えました。


「天巽様、これが私達の罪なのです」







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