雨の止んだ後  〜下〜



 あれから、女官に支えられるようにして、天巽様は後宮を後にされました。
 その後、愛麗はまたうつらうつらと夢を見始めてしまいました。
 他の女官と手伝って一緒に寝台に運び上げたくらいに、私は急ぎ洪謙お兄様に呼び出されました。


 理由は分かっています。
 玉座ではなく、天巽様のお部屋に呼ばれたことからも、天巽様のご心痛のほどはうかがえました。


「お前は! 天巽様を後宮へ連れていったのか」


 お部屋に入るとともに、いつもの穏やかなお兄様はそこにいらっしゃらず、まるで政敵を見るような眼で、洪謙お兄様は私を睨みました。


「違う、洪謙! 私が勝手に行ったのだ。美蘭を怒らないでくれ」

「ですが、天巽様・・・」


 お部屋には、天巽様と洪謙お兄様、そして洪惇お兄様がいらっしゃいました。
 明日出立の予定ですから、お部屋は綺麗に片づけられていました。
 必要なものは、すでに運び出したのでしょう。
 がらんとした皇帝の私室は、何だか今の私達の状況を表しているようにも思えました。


「私がいけなかったのだ。勝手に後宮へ入ったから」


 天巽様の体が震えていらっしゃいます。
 きっと、あの愛麗の姿は、天巽様が初めてご覧になる、己の罪の形だったのでしょう。


「天巽様、もうこのままお休み下さい」

「余のことは良い。余は美蘭の方が心配だ」


 思いがけない形で私へと話が及びましたので、驚きました。
 叱責されることを覚悟で来た私は、天巽様を見返します。


「あのような者の世話を、美蘭はずっとしてきたのだろう。あれでは美蘭の心が参ってしまう。美蘭、やはり明日の遷都、一緒について参れ」

「て、天巽様、それは・・・」


 洪謙お兄様の動揺は分かります。
 ですが、天巽様の決断は変わりませんでした。


「勅命だ。美蘭、そなたは手ぶらで良い。何か大切なものがあるなら、今宵中に用意せよ」


 天巽様は有無を言わせませんでした。
 何か言いたげな洪謙お兄様をねじ伏せてしまったのですから、相当愛麗の姿は印象深かったと見えます。


 私は反論する術もないまま、天巽様のお部屋を追い出されてしまいました。
 きっと、明日の朝にはお迎えが来てしまうのでしょう。


 勅命、とまで言われてしまえば、それに逆らうことはできません。
 今宵中に、後宮に残る女官たちに、愛麗を託す準備をするしかありません。


 仕方なく後宮へ戻ろうとする私に、一緒に部屋を出てきた洪惇お兄様がお声を掛けてきました。


「・・・おい、あの者の心は、そんなに狂っているのか」


 いつもは厳しい洪惇お兄様のお声も、天巽様の動揺されたご様子を御覧になった後だからでしょうか、戸惑いを含んでいるように思いました。


「狂っている、のではないと思います。呂雄の死を受け入れられずに、心を壊してしまったのですわ」

「そうか。あいつの言う通りにしなかった報いなのかも知れんな」


 洪惇お兄様は直接二人の捕縛に関わりましたし、呂雄の最期を見届けていました。
 当然彼の最期の望みも、洪惇お兄様は直接聞いておられました。


「罪人に情けを掛けるつもりはないが・・・そうだな、できれば最期の望みくらいは叶えてやっても良かったかも知れん」


 それだけ呟くと、洪惇お兄様は歩いていってしまいました。
 私も戻らねば、と思いました。


 虫の知らせ、というのはこのことを言うのでしょうか。
 すっかり夜の闇に包まれた後宮へと、私は歩いていました。


 どうしたことでしょう。
 明日を限りに私はここを離れねばなりませんが、愛麗はこの地に留め置かれてしまいます。
 今後のことをいかにしたらよいのか、考えねばならないことはたくさんあります。


 それなのに、どうしてでしょう。
 心は不思議と凪いだままです。
 都の外では物騒な戦が続いているというのに、この後宮は静かです。


「どういうことかしら」


 後宮に近づいても、女官の気配が感じられません。
 いつもなら、皇后が寝てしまった後でも交代で寝ずの番を務める女官がいるのですが、その姿がないのです。


 いつもと違う後宮の気配に、私は歩を早めました。
 気がかりなのは、愛麗のことだけです。


 彼女の部屋まで誰とも会うことなくたどり着くと、相手の了承を得る前に、私は飛び込む勢いで部屋へと入りました。


「――――」


 そこで見た光景は、一生忘れません。


 窓から差し込む月明かりが、部屋を包んでいます。
 音は何もありません。


 ほんのりと冴え冴えとした月光の下、窓の脇に立っているのは、見覚えのある赤い武官服の。
 彼の伸ばした手に、今まさに彼女が手を重ねて。
 何もかもを超えて、二人の姿が一つになって。


 何故、という疑問は欠片ももなく。
 ああ、彼女は、彼の手をとれたのだと、何故かすんなりと納得してしまいました。


「彼と行くの? 愛麗」


 答えてくれるか分かりませんでしたが、小さく問いかけると、愛麗はこちらを向いてうなずきました。


「ええ。だって、やっと呂雄と会えたんだもの」


 その笑顔は、彼を失って以来見せたことのなかった、彼女特有のほんのりと心温まるものでした。
 呂雄は私にわずかに目礼した後、愛麗を抱きしめたまま月明かりに溶けていきます。


 今度こそ、二人を捕らえようとする人はいません。
 ああ、窓の外で二人を待っているあの猫背の青年は、二人の幼馴染ではありませんか。


 怪奇であることは間違いないのですが、私の心はこの状況をすんなりと受け入れていました。
 まるで、そうなることが必然であったように。
 静かに見守っていた私の耳に、彼女の声が聞こえてきました。


「ありがとう、美蘭」


 それを聞いた途端、私はその場に崩れ落ち、声を上げて泣きました。









 今日も、宮廷は穏やかな空気が流れています。
 遷都して都は新しくなっても、昊は相変わらず一部の貴族によって支配されています。


 すでに晏都は暁の手に落ちていました。
 まもなくこの昇都にも暁の手は延びるでしょう。


 民はことごとく暁に降伏しているということです。
 国境付近を守っていたはずの武官も暁、あるいは反乱軍の「斜光」に下っていて、もはやこの国を守ってくれているものは誰もいません。


 それもそのはず。


「皇帝陛下もここまでだな。皇后さまがあんなことになったから」


 民は口々にそう言っているそうです。


 皇后陛下。
 その存在があまりにも多大に、民の心に影響を与えていました。
 遷都前日の出来事は、昊の民ならば誰もが知っています。


 ――――皇后は、皇帝陛下の遷都当日の朝、庭の池に浮かんでいるのを、後宮付きの女官に発見されました。


 まさに皇帝陛下が出立しようとなされたそのときのことです。
 誰の手によるものかは全く分かりません。


 洪謙お兄様が役人や女官たちに口封じするより早く、この民に人気のある皇后の悲報は、昊の国全土に広がりました。
 と同時に、様々なうわさが飛び交いました。


「皇后は遷都にあたり足手まといになるから、密かに皇帝とその側近に殺されたらしい」

「皇后は羽兎様の目をお持ちというだけで、想い人との仲を無理やり引き裂かれて皇后になられたそうだ」

「皇帝はそんな皇后が許せず、皇后の恋人を殺してしまった」

「それでも皇后が自分になびかぬと知り、皇帝自ら皇后を池に沈めてしまった」

「いや、皇后は民を顧みぬ皇帝に愛想を尽かし、自ら命を絶ち、死を以って恋人と結ばれた」


 民の憶測であることは間違いありません。
 ですが、その中には多分に真実が込められており、今まで洪謙お兄様がおかくしになって来られた愛麗と呂雄の仲まで、民の知るところとなってしまいました。


 大方、後宮に使える女官がうっかり口を滑らせたのでしょう。
 困った女官もいたものです。
 最も、しばらくは、私も洪謙お兄様に睨まれておりましたが。


 皇后の人気は予想以上に大きく、彼女の亡くなったことを知った民は、皆一様に首を垂れて冥福を祈りました。
 そして今の宮廷に対して、怒りの炎を燃やしました。


 そのときからでしょうか。
 暁の進行が目に見えて速くなりました。
 あわせて、反乱軍の動きも活発になり、水面下では暁と手を結んだとも聞きます。


 宮廷には物資が届かなくなり、着るものにも食べるものにも困る状況です。
 もはや四面楚歌、昊には味方など誰もいなくなってしまいました。


 天巽様と洪謙お兄様はそれでも降伏をしようとするお考えはないらしく、さらに都を移す算段をしています。
 洪惇お兄様は天巽様をお守りする使命がある以上、今までは前線へ赴くことができませんでしたが、この状況ではそうも言っていられません。
 暁の進行を食い止めようと、昇都を出ていらっしゃいます。


 私はと言えば昇都に移ってきた天巽様のお世話をする日々です。


 天巽様を皇帝にと望んだのは私達。
 そのために親友を裏切り、裏切り、政敵を落とし入れたのです。


 ここまでの犠牲は少なくありません。
 ですから、どのような結末が待っていようと、私達が逃げるわけにはいきません。


 きっとこの国はもうすぐ終わるのでしょう。
 それは政治に疎い私でさえ分かります。


 それでも、私は最期まで天巽様に付き従うつもりです。
 たとえそこに、絶望と死しかないのだとしても。
 それが、私の進むべき道だと思うから。


「あら?」


 ふと庭に眼を向けると、細い木の枝に二羽の雀がとまっていました。
 じゃれあうようにお互いの羽を繕う姿は、私の疲れ切った心を癒してくれます。


「・・・これからずっと、一緒ね」


 ふとこぼれた呟きに応えるように、二羽の雀は羽を広げて仲良く飛び立っていきました。







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