雪月譚   1




 暗い、暗い闇の中に、かすかな気配があった。
 闇よりもなお濃い影は、今にも消えてしまいそうなほど弱々しい動きで、ふらりふらりとその闇の中を漂っている。


 ――――私は、どこにいるんだろう。


 ぼんやりとした思考の中で、影はふと首をかしげた。
 といっても、その影はもはや人の体を持っていなかったので、正確には本人がそうしたつもりだっただけなのだが。


 ――――そうか、私は死んだのだ。


 影は必死に自分の記憶をたどると、ここに来る前の、まだ人の体を持っていた、最後の場面に思い当たった。
 ふらりと近づいた牛車。
 豪奢なつくりのそれは、数ある貴族の中でも主が格別な身分であることを示していた。
 当時、そこにはさる貴族が乗っておられた。
 自分が顔をあわせるのさえ恥ずかしいくらいのやんごとなき身分のお方だ。普段であったら近づきさえしなかっただろう。
 だが、影には近づかねばならぬ理由があった。
 ただ一言、礼を述べるために。
 本来なら言葉をかけることなど許されない。
 だが、その方はこんな卑しい身分の自分にさえ、身分の隔たりなど感じさせず声をおかけになるような方だ。


 ――――ただただ、私は命を救ってくださったあの方に、一言感謝の気持ちをお伝えしたかった。


 なかなか働いてくれない思考の中で、影は鉛のように重い頭を振って、その方の声を思い浮かべた。
 やさしくて、あたたかくて、全てを包み込んでくれるような、そんな声だった。
 あの日、日を重ねるごとに不安と貧困の増す生活に疲れ果て、もはやこの世に安息を求めても詮無いと、瞬間的に向かいからやってきた御車の前に身を投げた。
 しかし、間一髪その身は助かってしまった。
 死ねなかったということと、車にしたがっていた屈強の男に詰め寄られたことに、更なる絶望を抱いたとき、天恵のような声がかけられたのだ。
 その声に、どれだけ生きる希望を与えられたか。
 あれほど人の優しさが身にしみたことはなかった。
 その牛車を見送り、様々考えて、もう一度この世でやり直そうと思った。
 今まで感じたことのない、すがすがしい思いを掲げて。
 それを、あの命の恩人に伝えたかったのだ。
 ただ一言でよい。
 謝礼を伝えたかった。
 ――――だが。
 その牛車が、待ち望んだ方の車ではないと気がついたときにはもう遅かった。
 影の、人間であった頃の記憶は、迫り来る牛車の姿でぷっつり途切れている。
 全てをようやく思い出した影は、自分の死についてはもはや何の感慨も浮かばなかった。
 生きることに執着はない。ただ、あの方に救ってもらった命を失ってしまった、と思うと多少の悔しさもにじんだ。
 影は体を失い、意識さえも緩々と消え行く中で、対照的に思いだけは急速に膨らんでいく。
 ただ一言でよい、あの方に礼を言わなければ、と――――。





「あっ、幸鷹さん」
 花梨は朱雀大路から右京よりの辻で、見覚えのある人物を見かけて、思わず声をかけてしまった。
 花梨の声に彼の部下らしき人物まで一様にこちらに視線を移したものだから、やや気まずさを覚えつつも、こちらに向かって歩み寄ってきた幸鷹に頭を下げた。
「すみません、お仕事中に」
「いいえ、かまいませんよ」
 近づいてきて穏やかな笑みを見せたのは、検非違使別当の藤原幸鷹。
 高位な役職についている彼は相変わらず背筋を伸ばして、堂々としている。
 これが貴族の風格というものなのだろうか。
 あまたの役人の中にまぎれていても、一目でそれと知れるのは、やはり幸鷹には常人にはないオーラのようなものが出ているからなのか。
 あるいは、花梨の贔屓目か。
「それよりも、本日はそちらにお伺いできず、申し訳ありませんでした。何分、朝早くから知らせが入りましたもので・・・」
「何かあったんですか?」
「ええ、ちょっと・・・」
 珍しく幸鷹が言葉を濁した。
 それに疑問をさしはさんだのは、花梨本人ではなく同行者のほうだった。
「これだけ役人が出ているんだ。何かあったに違いないだろう。どうかしたのか」
「勝真殿・・・」
 険しい表情の勝真もまた、京の治安を守る京職という役目を担っている。
 ただ、昨今はその仕事を実質的に検非違使に奪われており、今はただその役職のみが残る閑職と化している。
 仕事を奪われたとはいえ、京の治安を案じる気持ちがなくなるわけではない。
 勝真とてこの不安定な世の中で、人々のために力を尽したいと考える一人なのだ。
 そんな勝真の真意を感じ取ったか、幸鷹は重い口を開いた。
 ただ、他に漏れ聞こえないよう、細心の注意を払って声を潜める。
「あまりご婦人の前でお話したくはないのですが・・・今日の未明、その辻で人が殺されたのです」
「強盗か何かか?」
「いえ、それが、良くわからないのです」
 眉を寄せて幸鷹は秀麗な顔を曇らせた。
「わからない?」
 奇しくも花梨と勝真の声が重なった。
 その声が思いのほか大きく響いてしまったらしく、幸鷹は二人をいさめるように人差し指を口元に当てた。
 この話を長引かせたくないらしく、彼は早口にことのあらましを続けた。
「殺されたのは、さる高貴な役職の方なのですが、御車に付き添っていた供の者が言うには、突然人魂が見えたかと思うと、次の瞬間車の中の方が死んでいたというのです」
「人の仕業ではない、ということですか?」
 花梨に付き従ってきたもう一人の八葉、今まで沈黙を続けてきた頼忠が、剣呑な光を宿した瞳で幸鷹を見返した。
「・・・供の者の言葉を信じれば、そういうことになります」
「じゃあ、怨霊の仕業ってことですか?」
 そう何気なく口にした花梨に、とたんに幸鷹の顔が渋くなった。
「そう決まったわけではありません。良いですか。くれぐれも、早まった行動は慎んでください」
 珍しく厳しい口調でそういいきると、幸鷹は他の質問を受け付ける前に、部下の元へ戻っていった。
「何か感じ悪いな」
 幸鷹の背に視線を向けながら、この事件への介入をはっきり拒絶した検非違使別当に、勝真は不快感を露にした。
 彼にしてみれば、同じ京を守るという役職にありながら、事件にかかわれないことがもどかしいのだ。
「なあ、花梨。この件、俺たちも調べてみないか?」
「えっ、でも、今幸鷹さんからかかわるなって・・・」
「あいつも言っていただろ。怨霊の仕業かもしれないって。だったらお前の領域だろ。俺がついているんだ。絶対お前を危ない目には合わせない」
「・・・・・・」
 花梨は困ったように口元に手を当て、首をかしげた。
 確かに、怨霊がかかわっているとすれば、これはもう自分の出番だ。
 しかし、幸鷹はかかわるなといった。
 困りきった花梨は、傍らに控える頼忠を見上げた。
「頼忠さんはどう思いますか?」
「私は神子殿のご意思に従います」
「うーん・・・」
 再び頭を抱えた花梨に、勝真は業を煮やしたように畳み掛ける。
「あいつの言うことなんて、気にするな。それに、相手が怨霊なら検非違使にどうにかできるものじゃない。もたもたしてたら被害が増えるかもしれないぜ」
「・・・そう、ですね」
 幸鷹の言葉を無視するのは大変心苦しいが、もし怨霊の仕業だとしたら、やはり自分が何とかしなくてはならない。
「分かりました。調べてみましょう」
 花梨の言葉に、供の二人はうなずいた。





「調べるといっても、どうしよっか」
 殺人が起こった、さる貴族が殺された、ということまではわかったが、それ以上のことは聞いていなかった花梨たちは、最初の一歩で、いきなりつまずいた。
「現場を調べるといっても、まだお役人さんたちがいるだろうし、かといって幸鷹さんはあれ以上教えてくれないだろうし・・・」
「内裏に言ってみたらどうだ?」
「えっ、どうしてですか?」
「もううわさになってるかもしれないだろ。さる高貴な方が殺されたといっていたからな」
「そっか。内裏には彰紋くんもいるもんね。よし、行ってみましょう」
 意気揚々と内裏に向かっていた花梨たち一行の前に、見慣れた貴族が現れたのは、一行が朱雀門に差し掛かったところだった。
 あ、あの貴族だ、と花梨が気づいたや否や、件の御仁は派手にすっ転んでいた。
 起き上がって花梨たちの姿を見つけると、彼の顔色はおしろいの上からでも、はっきり高潮しているのが分かった。
「お前のような下々のものがまろに近づくから、転んでしもうたではないか。無礼者」
「はあ? 勝手に転んだのはあんただろ」
 けんか腰の勝真を認めたまろは、ううっ、とやや気圧され気味に一歩後ろへ下がったが、その口は閉じなかった。
「ああ、嫌じゃ嫌じゃ。下々のものにかかわるとろくなことがない。あの方も、下々のものにかかわったから、あんな目に遭うのじゃ」
「え?」
「大きな声ではいえぬが、大方物の怪にだまされたのであろう。帝の覚えめでたき若き貴族であったに、それを物の怪に取り殺されるなど、げに恐ろしや・・・」
 最後のほうはほとんど独り言だったが、花梨はその話に食いついた。
「あの、もう少し詳しく聞かせてもらえませんか?」
「なっ、無礼な! まろに頼みごとをするなら、まずやることがあるであろう!」
「・・・ほう? それは一体どんなことなんだい?」
「!」
 花梨たちでもまろでもない第三者の声に、皆声の主を捜して振り返った。
 すぐにその正体は分かった。
「おや、驚かせてしまったかな」
 悠然とした立ち姿の彼は、艶やかな長い髪をわずらわしげに梳いてみせると、一向に近づいてきた。
「翡翠さん! どうしたんですか?」
 びっくりして声をあげた花梨に、翡翠は嫣然と微笑んで見せた。
「こんなところで偶然神子殿に会えるなんて、今日は実に良い日らしい」
 さりげなく花梨との距離を詰めようとする翡翠に、勝真が割って入った。
「俺たちは、何であんたがここにいるんだって聞いたんだが」
「おっと、これは勝真もいたのか。やれやれ。私の幸運も、神子殿に会うまでだったのか」
 ふう、と大げさにため息をつく翡翠が、ようやく話をまろのほうへ向けた。
「さて、どういう手順を踏めばよいのか知らないが、神子殿がお前の話を所望しているのだ。どれだけつまらない話かは知らないが、聞かせてやってくれるだろうね」
「うぬぬ、つまらぬ話だと? 今内裏を騒がせておる話題じゃぞ?」
「口上はいいから、早く本題に入ってくれないか」
 花梨に接していたときの好意的な態度は、すっかり消え去っていた。
 翡翠はあくまでも強い態度でまろに迫った。
「どうせ、恥ずかしくて話せないのだろう?」
「ば、馬鹿にするでない! 帝が目をかけていらっしゃった貴族が物の怪に取り殺されたのじゃぞ!? 下らぬ話ではない!」
「それで、殺される理由に、心当たりはあるのかい?」
「あの方は頻繁に右京を訪れておられたからな。大方そちらに女でも囲っておられたのであろう。ああ、嫌じゃ。卑しいものとかかわりを持つなど」
 嫌じゃ嫌じゃ、と繰り返しながら、まろはそそくさとどこかへ行ってしまった。
 それでも転ぶのだけは忘れないのだから、たいしたものである。
「・・・ということらしいが、この話がどうかしたのかい?」
「私たち、その事件について調べているんです」
 花梨は幸鷹に会ったところから話し始めた。
 さる高貴な身分の貴族が殺されたこと、それが怨霊の仕業かもしれないこと、でも幸鷹はこの一件にかかわるなといったこと。
 一通り事情を聞き終えると、何故か翡翠は笑みをこぼした。
「・・・何か、おかしいところでもありました?」
「いや・・・ふふふ。なんでもないよ」
 意味ありげな視線を花梨に向けたが、それ以上翡翠は何も言わなかった。
「帝側の人間ならば、調べやすそうだ。花梨、彰紋に会いに行こうぜ」
「そうですね。あ、翡翠さんはどうしますか?」
「私はやめておくよ。ややこしいことになりそうだからね」
「あんたには期待していないさ。花梨、行くぞ!」
「は、はい! 翡翠さん、ありがとうございました」
 律儀にぺこりと頭を下げた花梨を優しげな瞳で見送った翡翠は、
「さて、と。仕方ない。少し私も協力しようか」
 そうポツリと呟くと、軽やかな足取りで朱雀門をあとにした。




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