雪月譚 2
「神子! それに勝真殿と頼忠まで。わざわざこのようなところまでお越しになるなんて・・・」
突然の訪問にもかかわらず、彰紋は快く花梨たちを向かい入れた。
やややつれたような色が顔からうかがえるのは、気のせいだろうか。
「今日はお前に聞きたいことがあってきた。今朝、帝側の貴族が右京よりの辻で殺されたのは、一体誰なんだ?」
「えっ・・・」
突然の生々しい話に、彰紋は目を見開いた。
あわてて横から花梨がフォローを入れる。
「もう、勝真さん。それじゃ分かりませんて。実は・・・」
花梨は翡翠にしたのと同じ話を、彰紋にした。
話が進むにつれ、だんだんと彼の顔がうつむいていくのが良くわかった。
「・・・もしかして、お知り合い、だった?」
おずおずそう切り出すと、花梨が気遣わしげに見ていることに気がついたのだろう。
彰紋は顔を上げて、花梨を安心させるようにほのかな笑みを口元に浮かべた。
「はい。彼は僕の依頼で、右京に行っていたのです」
「えっ!?」
思いがけない言葉に、花梨だけでなく勝真や頼忠も驚きで目を瞠った。
そんな彼女らにもう一度笑って見せると、次の瞬間、彰紋の顔は沈鬱に染まった。
「近々、あちらにあるお屋敷に、女性を迎える予定でしたので、その準備を任せていたのです」
女性を迎える、といっても彰紋の場合、色恋の艶っぽい話ではなく、生活に困窮した女性を援助するための行為だ。
事実、彼はすでに何人かの女性の面倒を見ている。
その女性たちとの仲をいかがわしくいぶかしんでよからぬ噂も立てるものもいるが、本人としては一向にその気はなく、ただの慈善活動として動いていた。
「聞けば、もとはさる宮仕えのお家柄だとか。それが政治的諍いで家財を失い、唯一のよりどころの二親も流行り病で亡くしたとのことで、困っていたのです。寄る辺もなくただ死を待つばかりということでしたので、僕がお世話しようと思ったのです」
「そうだったの・・・。それで、その女性は今どうしているの?」
「今少し準備に時間がかかるので、それまでは今のお住まいでお待ちくださるよう、言ってあります」
ふう、と彰紋は大きく息を吐き出した。
「こんなことになってしまって・・・彼が死んだのは、僕のせいです。どう償いをすればよいか・・・」
「彰紋くん・・・」
「それに、あの女性にも、何もしてやれなくて・・・」
彰紋はそこまで言って、言葉を詰まらせてしまった。
重苦しい沈黙が、その場にいた四人の肩に重くのしかかる。
自然、口も重くなってしまい、花梨は何と言葉をかけて良いのか分からなかった。
だが、一番苦しんでいるのは、自責の念に耐えている彰紋だ。
思い切って花梨はこの沈黙を打ち破った。
「本当に、ありきたりなことしか言えないけれど、あまり気を落とさないで。絶対彰紋くんのせいじゃないもの。私たちがこれから、それを証明してくるから」
「神子・・・」
根拠もない自信に胸を張る花梨の姿が、今の彰紋にはどれだけ頼もしく見えたことだろう。
いつの間にか、彼の顔にはいつもの穏やかな微笑が戻ってきた。
「ありがとうございます、神子。僕も、落ち込んでいる場合ではありませんね」
よし、とひとつ気合を入れるようにうなずくと、彰紋は三人に向き直った。
「この件に関しては、怨霊がかかわっているのかもしれないのですよね。神子にはお二人がついているので大丈夫でしょう。僕はこのことを帝にご報告に参ろうと思います。僕に何かできることがあったら、何でも言ってくださいね」
そう言い置くと、彰紋は一礼して三人の前を辞した。
静かな足音が聞こえなくなって、初めて花梨はあることに気がついた。
「そういえば、彰紋くんに殺された貴族の名前を聞くの、忘れちゃった・・・」
「あ、そういえば」
しまったと思ってももう遅い。
彰紋は内裏の奥へといってしまった。
そこへ踏み込む資格は、三人とも持っていなかった。
「どうしよう、また振り出しだよ・・・」
がっくり肩を落としながら、花梨たちは内裏をあとにした。
北からの風が、そこにたたずむ幸鷹の髪の毛を優しくなでた。
しかしそのようなことには一切気を留めた様子もなく、彼はただ荒廃した屋敷を眼鏡の奥の緑色の目に焼き付けている。
「やれやれ。今朝の一件で忙しいはずの別当殿は、一体こんなところで何をしているんだい?」
「!」
はっとして振り返った先には、余裕の笑みを浮かべた翡翠がゆったりと立っていた。
この荒れ果てた場所にはそぐわぬ華やかさをもっているというのに、何故かそこにいて不思議と違和感はなかった。
彼もまた、こうした風景と無縁ではないのだろう。本人は何も語らないが、幸鷹にはそう感じられた。
「あなたこそ、このようなところに何の用です」
そう問い返した幸鷹の声には、警戒の色が混じっていた。いぶかしんで細められた目が、容赦なく翡翠を見据える。
だが、それをやすやすと受け流し、翡翠は世間話をする軽さで口を開いた。
「そこには、さる姫君が住んでいたそうだね。もっとも、姫君といっても、このような場所に居を移さねばならぬほど没落してしまった家の、だそうだけれど」
「! どうしてそれを」
驚きに目を瞠る幸鷹に、翡翠は笑んで見せた。
「あの仕事一筋の別当殿が、こんな場所に女性を囲っていたとは、驚きだね」
「なっ、違います!」
思わず大きな声で反論してしまった幸鷹だが、それすら面白そうに眺める翡翠に気がつき、乱暴に咳払いをした。
「あなたならもう知っているでしょう。ここは、父の政敵であられた方の一家が移り住まわれた屋敷なのです」
ふう、と大きく息を吐き出したのは、荒立った心を静めるためか。
次に息を吸い込んだときには、幸鷹の顔はやや悲壮を帯びていた。
「その方は帝側の人間で、長年父と激しく対立していました。その対立に決着がついたのが去年。私はちょうど伊予にいた頃ですので、詳しい状況は分かりません。ただ、その方は家財一切を取り上げられ、宮中からも追われた、ということは確かです」
そこまで言うと、幸鷹は荒れ果てた屋敷を見やった。
「・・・ここを通ったのは、本当に偶然です。屋敷の前を車で通りかかった折、屋敷の中から一人の女性が車に向かって飛び出してきたのです」
その状況を思い出してか、彼は目を閉じた。
「彼女は死にたがっていました。親も兄弟も親類もなく、一人生きてゆくのが疲れた、と・・・。話を伺っているうちに、彼女の父親が父の政敵であった方だというのは分かりました。しかし、私は彼女をほうっておくことができませんでした」
京の人のために働く幸鷹には、貴族か否か、院側か帝側か、そんなことは関係なかった。
ただ、困っている人を助けるため。
京には数多困窮し、生きる気力を失っているものがいる。
その全てを救うまでには、残念ながらいたっていない。
だが、その全てを救いたいと思う気持ちに偽りはない。
諦めては駄目だ。あの少女が教えてくれた。
全てを救うまでにいたらなくても、せめて目の前で苦しむ人くらいは・・・。
幸鷹はちらりと翡翠に視線を移した。
「あなたには回りくどいことをしていると思われるでしょう。しかし、院側の人間が、帝側の、しかも己の一族が没落に追い込んだ家の者を援助することはできません。それをしてしまっては藤原家一族の問題になります」
「色々、ご苦労様なことだ」
「何と言われても、反論はしません。私では力になれない。ですから、彰紋様に協力を求めたのです」
幸鷹は院側の人間で、東宮である彰紋は帝側の人間。
宮中では院に属するか、帝に属するか、役人たちもはっきりと二分していた。
互いは常にいがみ合い、時には政敵を蹴落とすこともする。そんな殺伐とした中で、もし今までだったら幸鷹は彰紋に協力を求めることなどしなかっただろう。
しかし、神子を守る八葉という縁を持った今、彼に協力を求めるのに、自分でも驚くほど抵抗はなかった。
また、相手も快く応じてくれた。
改めて八葉というつながりに不思議なものを感じる。
これもまた、ひとえに神子を守るという使命がなした業であろうか。
「彰紋様はすぐに住まいを手配し、いつでも移れるよう準備を進めていらしたようです。新しい屋敷に移るのも、もうすぐだと聞いていました。ですが・・・」
「肝心の姫君がいなくなってしまったのだね」
翡翠の言葉に一瞬息を詰まらせた幸鷹だったが、ゆっくりと首を縦に振った。
「ええ」
搾り出すような声は、苦渋に満ちていた。
思い出したくもない感情が、再び彼の胸を襲う。
「彰紋様の指示を待つばかりの身であったはず。どこか遠くへいくことはできまいし、その必要もない。一体どうしたのか・・・」
「屋敷には、本当にいなかったのかい? 中に入ったのだろう?」
「それは・・・ええ。先ほど入ってみましたが、中には誰もおらず、もぬけの殻でしたが」
「ほう・・・」
不意にすっと翡翠の目が細くなった。
と同時に、近くに落ちていた小石をすばやく拾い上げると、幸鷹の背後に向かって投げつけた。
「ぐあっ」
程なくして情けない悲鳴が上がった。
「誰です!」
はっとして振り返った幸鷹の目の端に、男が逃げていくのが移った。
「待ちなさい!」
追いかけようとした彼の腕を、翡翠がつかんだ。
「ほうっておけ。どうせ向こうから現れるさ」
「どうしてそう言い切れるのです」
不審者を逃がしてしまった苛立ちを露にする幸鷹に、対する翡翠はいつもの涼しげな笑みを浮かべた。
「そうそう、私はそのことを言いに来たのだよ」