雪月譚 3
「うーん、見つからなかった・・・」
紫邸に花梨が戻ってきたのは、日も暮れかけたたそがれ時だった。
彰紋から情報を満足に仕入れられなかった花梨たちは、少しでも情報をと京を歩き回ったが、結局何の手がかりもないまま一日が過ぎてしまったのだ。
もうこれ以上の探索は、今日は無理だという判断で、こうして屋敷に戻ってきたのだ。
「幸鷹さんにも会えなかったし」
花梨たちは一度、幸鷹に会いに内裏や事件場所にも足を運んでみたのだが、どちらにも彼の姿はなかった。
「そういえば、幸鷹さんはこの件にかかわるなっていったんだよね・・・調べてるって知ったら、怒るかな?」
止めろといわれたのに止めなかった。きっとそのことを知った彼は、渋い顔をするだろう。
あるいは、余計なことをと思うかもしれない。
だが、もしも怨霊がかかわっているとするなら、自分が何とかしなくてはならない。
その思いから、たとえ幸鷹の言いつけを無視することになっても、花梨は動いていた。
「・・・幸鷹さん、許してくれるといいんだけど」
そんなことを思いつつ、暮れてゆく空を眺めていると、遠くから紫姫の声が聞こえてきた。
「お、お待ちください、泰継殿!」
「え?」
花梨は身を起こし、だんだんと近づく足音に首をかしげた。
「神子、失礼する」
程なくして予想通りの人物、泰継が顔を出した。
その後ろからは、困惑しきった紫姫が追いついてきた。
「どうしたんですか、泰継さん」
「内裏の気が乱れている」
「内裏の? それって、内裏で何か起こっているんですか?」
「分からぬ。だから今からそれを調べに行く」
「今からですか?」
驚きの声をあげる花梨に、紫姫もうなずいた。
「泰継殿。今日はもう遅いです。神子様もお疲れのようですし、明日では駄目ですか?」
「それでは遅い」
きっぱりそう言い切ると、泰継は花梨の返事も待たずにきびすを返した。
「あっ、待ってください! 泰継さん!」
さっさと歩いていってしまう泰継を、花梨はあわてて追いかけた。
「意外と内裏って警備薄いんですね・・・」
ひたひたと泰継と二人、闇に乗じて内裏を歩く花梨は、のんきにそんなことを述べた。
対する泰継は黙々と歩き続けている。
周囲に気を配っている様子が、その険しい表情から伺える。
緊張感をたたえたまま、二人は内裏の中心へと歩を向けていた。
と、しんと静まり返った中で、ひそひそとなにやら話し声が聞こえてきた。
「この声って・・・彰紋くん?」
聞き覚えのある声に花梨は耳を疑った。
声は角を曲がったところから聞こえてきている。
「あなたは・・・どうしてあなたがここに?」
「・・・・・・、・・・・・・」
「え? 何を言っているのです?」
「・・・・・・。・・・・・・」
「待ってください。もしかして、今朝のあの事件、あなたが・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「わっ!」
相手の声は何も聞こえないが、彰紋の切羽詰った声に、花梨と泰継は走り出した。
「彰紋くん!」
角を曲がってみると、そこには彰紋しかいなかった。否、正確に言えば、はっきりと実体を持っているものは、だ。
「女の人!?」
花梨の目に映ったのは驚きの表情を浮かべる彰紋と、ぼんやりと浮かび上がる見知らぬ女性だった。
見事な長い黒髪に、しかしそれとはそぐわぬどこかくたびれた蘇芳の衣をまとっている。
顔立ちは愁いを帯びているためか、ひどく繊細な印象を受ける。
そこまでならば、別に驚きはしない。
しかしその女性の体は、向こうの景色を透かしている。普通の人間ではあるまじき体質である。
とっさのことに戸惑う花梨の横を抜けて、素早く泰継が札を取り出した。
それを投げるのと、女が消えるのは同時だった。
「・・・逃げたか」
いつもと変わらぬ感情に乏しい硬い声でそういうと、もはや女に興味を失ったのか、泰継はようやく花梨たちのほうを見た。
「すみません、情けないところをお見せしてしまいました」
ようよう取り戻しつつある冷静をかき集めて、彰紋はすまなさそうに二人に頭を下げた。
「今の人って・・・彰紋くんの知っている人なの?」
人、といって良いのかわからなかったが、便宜上そう呼んでおくことにする。
花梨は先ほどの会話を思い出し、彰紋の答えを待った。
しばし黙考し言葉を選んでいる様子の若き東宮は、しかしうまい言葉が見つからずに首を振った。
「知っていることは知っています。直接お会いしたのは一度のみですが・・・しかし、なぜあの方が・・・」
途中から自問を始めてしまった彰紋をせかすように、泰継が目を細めて先を促した。
「あれは人ではない。あの者、すでにこの世の身ではあるまい」
「えっ・・・」
ひどく衝撃を受けて、彰紋の色素の薄い目が動揺で揺れた。
よく見ると両の手をぎゅっと握り締めている。それはまるで震える己を必死で鼓舞しているようだ。
「彰紋くん・・・」
「す、すみません。神子に、情けない姿を見せてしまいましたね」
「ううん、そんなことないよ。無理しないで」
「え、ええ・・・」
彰紋は目を閉じ、何度か深呼吸をした。
乱れる鼓動を何とか抑え、次に目を開けたときにはずいぶん落ち着きを取り戻していた。
「すみません、お話の途中でしたね。・・・あの方は、昼間神子にお話した女性なのですよ」
「えっ。彰紋くんがお世話しようとしていた人?」
「ええ・・・」
彰紋はやや視線を下に向けながら、自分でも状況を整理するようにひとつひとつ思い出しながら、ゆっくりと口を動かす。
「――――あなたは、こんな私にさえお優しくしてくれた方だから、私はあなたに恩返しをしたいのです」
「え?」
「この世は先も見えぬ末法の世。ならば私にできることは、この世からあなたをお連れすることだけです」
「えっ、何?」
「さあ、恐れることはありません。お手をこちらへ」
「あ、彰紋くん?」
「・・・・・・あの女性がそうおっしゃったのです」
それからその女は彰紋のほうへ手を伸ばしてきたのだという。
花梨たちが駆けつけたのは、ちょうどそのときだった。
「あの気の乱れ・・・今朝感じた右京のものと同じだ」
「えっ?」
抑揚のない声で淡々と告げた泰継に、花梨と彰紋の視線が集まる。
「それって、もしかして、彰紋くんの部下の人が殺されたのとかかわりがあるんですか?」
「彰紋の部下?」
そういえばまだ泰継さんには話していなかったんだっけ、と花梨は今日一日の出来事を簡単に説明した。
どれだけ話を進めても、泰継の表情に変化はない。
ただ黙して花梨の話を聞いていた。
「・・・というわけで、今日はあまり成果はなかったんです。でも、もしさっきの人が今朝のことにかかわっているとしたら、あの人を捜さないといけませんね」
「ああ。だが、それはもしかしたら簡単なことかも知れぬ。彰紋」
「はい?」
急に名を呼ばれて彰紋は顔を上げた。
「お前とお前の部下はあの女とかかわりがあったのだな。どうやらあの女、お前に恩を返したいと思っている」
「ええ、さっきもそんなことを言っていましたが、でも、僕は何かしたわけではありません。しようとしてできなかった・・・」
「彰紋くん・・・」
思い出すだけで沈み込んでしまう彰紋に花梨はかける言葉に詰まってしまったが、泰継は何事もないように話を続ける。
「あの女が死んでいるのは間違いない。だが、生きているうちに受けた恩を返したいとお前たちのもとへやってきた。お前の部下は、どうやらあの女によって魂を抜かれたのだろう。・・・悪意がないのが厄介だ」
「彼女は、ただ彰紋くんたちにお礼を言いたかったんですね」
それが、この世から連れ出すという恩の返し方を選んでしまったのは、さすがに間違っていると花梨は思った。
しかし、この世界の人は微妙に感覚が違う。
この世に望みがないと、極楽に行ってからの幸せを願う人の何と多いことか。
それは貴賎問わずこの京の人々の共通観念だった。
そうして考えてみれば、もしこの思想を彰紋の部下が持っていたのだとすると、あながち不幸の死だったとはいえない気もする。
真実はどうなのか、肝心の人物はもうこの世にいないため、確かめようはないが。
「恐らく、望みがかなわなかったあの女は、再びお前の元を訪れよう」
「ということは、彰紋くんと一緒にいれば、あの人に会えるってことですか?」
「そういうことになる。だが・・・」
ここで初めて泰継が表情をゆがめた。
「もしも、あの女の恩返しの対象が他にもいたら、そちらにも気を配らねばならぬが・・・」
「っ! 幸鷹殿があぶない!」
「えっ?」
ここでなぜ彼の名が挙がったのか。
予期せぬ人物の名が突如あがったことに花梨は目を丸くした。