雪月譚 4
空には満天の星が輝いている。
昼間風がなかった冬の空は冴え冴えとし、広く星空が眺められた。
こんな空は花梨と二人、肩を並べて星見を楽しむのに適しているのであって、突然の呼び出しに苛立ちを隠せず相手と対峙するのには、清らか過ぎる。
「さて、このようなところに呼び出して、一体何をしようというのですか」
幸鷹は目の前に立つ数人の男に鋭い視線を送る。
男たちはどれも狩衣姿であり、一目でそれなりの身分があるものたちであると分かる。
かろうじて顔は隠しているものの、それとてどれだけ役に立つやら。
仕事中に使いを寄越し、ひそかにこちらへ来いという主旨の手紙からはっきりと感じられる香といい、あまりにも無用心な相手に、幸鷹は警戒心を抱くより前に呆れてため息が出るのを止められなかった。
彼が今たっているのは、京の都の中でも、特に右京と呼ばれるところだ。
道幅約八十五メートル、南北に走る朱雀大路を境に東西をそれぞれ左京、右京としているわけだが、右京というのは低湿地が多かったため、慶滋保胤の『池亭記』からも分かるように、思うように発展しなかった土地だ。
貴族の邸宅が並び、特にこの頃は鴨川以東に宮殿寺院が並び繁栄している左京とは、まるで別世界の暗く湿った空気をはらんだこの地では、夜を迎えてさらに闇を濃くしている。
こんなところに、しかもよりにもよって夜を選んでひそかに呼び出すなど、明らかに常識はずれも良いところだ。
相手がよほど夜がすきなのか、あるいは・・・。
「・・・例のものを、渡してもらおう」
「例のもの?」
男たちを代表して、渋茶色の狩衣姿が一歩前へ出てそう言った。
「あなたは昼にあの屋敷で檜扇を拾われたはず。それをこちらへ渡していただきたい」
「檜扇・・・?」
昼。屋敷。檜扇・・・。
檜扇に覚えはないが、昼間と屋敷といってつながるのは、あの女性の屋敷のことだった。
あの時確かに屋敷の中に入った。だが、女性の姿を見つけることができずに出てきただけで、何かを拾った覚えはない。
いぶかしんで黙り込んだのを、自分たちの要求の拒絶ととったのか、にわかに男たちの雰囲気が変わった。
「我々の言う通りにしないと、命にかかわります」
男たちは帯刀していた太刀をすらりと抜き放った。
反りがない抜き身が月光を映して異様な輝きを得た。
幸鷹は一瞬息を呑んだが、それと悟られないよう平静な顔を崩さなかった。あくまでも冷静な声音で、相手を刺激しないよう、しかし容赦のない言葉で応じる。
「言っている意味が分からないのですが。あなた方こそ、あの屋敷に何の用があったのです。まさか、あの屋敷の女性が行方不明なのに、関係があるのですか」
「っ!」
かちり、と男たちが持つ太刀が音を立てた。
まるで持ち主の心の動揺を表すかのように。
それは幸鷹の問いに「是」と答えているも同じだ。さっと幸鷹の顔色が変わる。
「彼女に何をしたのです! 言いなさい。彼女は彰紋様が庇護された方なのです。もしものことがあれば、ただではすみませんよ!」
こんなときに名前を出して申し訳ないと思ったが、男たちにとって東宮である彰紋の名の効果は絶大だった。
「あ・・・彰紋様の・・・」
「な、何と言うことじゃ・・・」
愕然とうめき声を上げる男たちのなかで、一人がいきなり地面にひれ伏した。
「お、お許しください! われらはさるお方の命にて動いていたに過ぎません。帝にあだなそうとしたわけではありませぬ!」
それを合図としたかのように、他の男たちも膝を折り、幸鷹の前で地面に額をこすりつけた。
「どうか、信じてください。事故なのです。いたしかたぬことだったのです」
「どういうことなのか、詳しく言いなさい。何があったのです。あの女性はどこにいるのですか」
幸鷹の胸の中でざわりと何かが騒いだ。何故か昼間聞いた翡翠の言葉が脳裏を掠めた。
「――――つい先日のことだ。夜更けにこの屋敷で、妙な音が聞こえたというのだよ」
昼間会った女性の屋敷の前で、翡翠はそう切り出した。
「・・・まあ、情報源は明かせないのだけれど、嘘ではないのは確かだ。屋敷の前には立派は網代車が止まっていたそうでね。垣根の向こうからは数人の男の声が聞こえたそうだ。彼は余計なことには首を突っ込まないほうが良いと思い、それきりその場を離れてしまったそうだが・・・」
そこで翡翠の艶やかで長いまつげにふと暗い翳が落ちる。
「彼の話では、辺りには血のにおいがしていたそうだよ」
どう解釈をするかは君の勝手だがね、と言ってどこかへ行ってしまった翡翠であったが、あの様子からでは恐らく良くないことが、それも取り返しのつかぬ事が起こってしまったあとではないかということが推測された。
慌てて使いをやって、人を集めて屋敷の捜索をしようとしていたときに、ちょうど呼び出しを受けたのだ。
不審者に向かって石を投げた翡翠は言った。
「どうせ向こうから現れるさ」
それに気がついた幸鷹は、屋敷の捜索を部下に任せ、自分は単身あえて呼び出しに応じたというわけだ。
果たして、どうやら男たちは昼間の件とも先日の網代車の件ともかかわりがあるようだ。
何か良くないことが起こっているような気がしてならない幸鷹の口調は自然厳しいものとなる。
「全て白状なさい! あなたたちは一体彼女に何をしたのです! あなたたちに命を与えた黒幕は誰です!?」
さすが検非違使別当は犯罪人の取り調べに慣れているだけあって、その威厳はまぶしいほどだ。
男たちはその勢いに押されるように、さらに頭を低くした。
「わ、われらではどうしようもなかったのです。何故なら、車に飛び出してきたのは、あの女のほうだったからです!」
「え・・・?」
「あの方は物好きなお方だから、京の隅でひっそり暮らしているという女に興味をもたれて。あの夜、その女の元へわれらを具して行かれたのです。く、暗くて、あの女が飛び出してくるとは、思わなかったのです!」
必死に自分の身の保身を図る男の言葉を、幸鷹は愕然とした思いで聞いていた。
あの女性が、自ら車に身を投げ出したというのか。
とても信じられなかった。だって彼女はあの時、もう一度生きていこうと幸鷹に誓ったからだ。
彼女は己の身の不幸を嘆いて幸鷹の乗る車の前に身を投げ出した。
そのときは昼間ということもあり、間一髪彼女を轢かずに済んだ。
そこで彼女の事情を根気良く聞き、彼女が生きていけるような環境を整えることを約束した。
代わりに彼女は、生きていく決心をしたのだ。
それなのに。
またも彼女は車の前に身を投げ出したというのか。
幸鷹は自分でも知らぬうちに拳を握り締めていた。
やはり自分では彼女を救えなかったのかと、己の無力感を痛いほど実感した。
「ど、どうか別当殿! われらは仕方なかったのです。どうか、この件は内密に!」
「お、お願いいたします」
「どうか、われら一族のためにも・・・」
男たちは口々にそう嘆願した。
だが、幸鷹には一番聞きたくない、しかし一番聞かねばならぬことがあった。
「・・・それで、彼女はどうしたのです」
びくり、と男たちが震えた。
この反応と翡翠の話から、おぼろげに推測できてしまう最悪の展開を何度も否定しながら、幸鷹はもう一度問うた。
「車で引いてしまったあと、彼女をどうしたのです。手当ては、もちろんしたのですよね。どこか別の場所で、静養させているのでしょう?」
もはや願望に近かった。
そうあってほしかった。
自分のこの嫌な疑念を振り払ってほしかった。
だが。
「にっ・・・庭の隅に、埋めました・・・」
一人が小さく、それでいて妙に実感のこもった生々しい声で一言、そういった。
その瞬間、幸鷹のかすかな望みは粉々に砕け散った。
代わりに大きな衝撃が彼の思考を奪う。
「・・・埋めた、のですか」
「他に手はなかったのです。あの方は、大事な車が汚れたとひどくご立腹の様子で、この事故をなかったことにしろとおっしゃったのです。それで・・・」
男たちで彼女を庭の片隅に埋めてしまったのだという。
「で、でも、女はすでに死んでいたのです。手当ても何も、われらにはできなかったのです!」
男たちからは、罪悪感というものが微塵も感じられなかった。あるのはただ、己の保身ばかり。
人の命がひとつなくなったというのに、この感覚は一体なんだ?
ようやく出るようになった声で、幸鷹はきっぱりと言い放った。
「人を呼んで、あなた方を捕らえます。あなた方のやったことは、許されざる行為です」
「な・・・」
男たちの顔色がさっと青ざめた。
土下座した際顔を覆っていた布が剥がれ落ちたせいで、全員の顔がはっきりとわかった。
どこかで見たことがあるような顔だ、と幸鷹は思った。
だが、名前も、どこで見たのかも思い出せない。その間にも、男たちは互いの顔を見合わせ、目で意見を交し合っている。
と、その中の一人、先ほど幸鷹に要求を突きつけた渋茶色の狩衣の男が、すっと立ち上がった。
不穏な空気を感じて、幸鷹はとっさに一歩身を引いた。
その勘は間違っていなかった。
男は地に転がっていた太刀を手に取ると、その切っ先をまっすぐ幸鷹へと向けた。
「・・・この話を知っているのは、あなただけだ。ここであなたが消えれば、このことが他にもれることはない」
その言葉を聞いて、その通りだとばかりに他の男たちもそれに従う。
三人に刃を向けられながらも、幸鷹は命を乞うような真似はしなかった。
「私を殺しても、先ほどの檜扇の話はどうするのです? 実は今、人をやってあの屋敷を調べているところなのですよ。その檜扇も見つかっている頃でしょうね。あなた方の身元が割れるのも時間の問題です」
「だ、黙れ!」
もはや激昂した男にはどの言葉も通じなかった。
一人が幸鷹に向かって切り込んできた。
「っ!」
とっさに自分の太刀へと手を伸ばす幸鷹。
これでも一応武官の身。
やすやすと斬られるつもりは毛頭ない。
だが、思いのほか男の踏み込みが速かった。
しまった、と思ったときにはすでに白刃が目の前に迫っている。
「!」
斬られる、と覚悟を決めた瞬間。
突然辺りが真っ白に染まった。