雪月譚 5






 例の女性は、幸鷹殿の紹介だったのです。

 先ほど聞いた彰紋の声が、何度も花梨の頭の中で繰り返されている。
 思わぬところから浮かび上がった幸鷹の危機。
 彼は無事だろうかと身を案じる一方、花梨はどうしてもその女性と幸鷹とのつながりを考えずにはいられなかった。

 ――――もしかして、幸鷹さん。その人が好きだったとか・・・?

 自分で思い浮かんだ考えに、思わず息が詰まる。
 そんなのは嫌だ、と心の中で自分が叫ぶ。
 仕事一筋で、女性の影すら感じられなかった幸鷹であるが、考えてみればおかしいのだ。
 とうに結婚をしていてもおかしくない年齢で、今をときめく検非違使別当だ。
 仕事はできるし部下からの信頼も厚い、それに顔立ちは端整で品行方正、絵に描いたような優秀な人物なのである。
 事実、紫姫の屋敷に彼がやってくると、女房が口々に彼の話をするのを、花梨は知っていた。
 誰か一人くらい、思いを交わす相手がいても何の不思議はない。
 そう思いつつも、心の中でどこか幸鷹には特定の女性はいないのだと安心しきっていた。

 ・・・幸鷹さん。

 ひそかにその名を呼ぶ。何故か胸が締め付けられる思いがした。

「神子? 大丈夫ですか?」

「え?」

 隣を走っていた彰紋が心配そうに声をかけてきた。
 内裏から全速力で走り続けているのだ。
 普段そんなことをしないだろう彰紋は、息が切れて苦しそうであったが、どうしても同行させてほしいと花梨、泰継についてきたのだ。
 先頭を行く泰継は札を掲げて顔色ひとつ変えず先を急いでいる。
 花梨と彰紋は彼を見失わないようついていくのが精一杯だ。
 泰継は先ほど消えた女性の気配を探りつつ走っている。
 彰紋のもとを離れていった以上、彼女の向かう先にはもう一人の恩人、幸鷹がいるはずだ。
 花梨や彰紋は気ばかり焦ってしまう。
 泰継の足は、朱雀大路の西へと向かっている。

「な、何か騒がしいようですが・・・」

「何か、あったのでしょうか・・・?」

 走っている途中、遠くから人の声が聞こえてきた。
 やけに灯りをたくさんつけているようだ。
 そこだけが橙色に染まっているのが、離れていても良くわかった。
 確かめようにも今はそんな暇がない。
 疑問を残したまま、一向は先を急ぐ。

「神子、彰紋、油断するな」

「えっ」

 ふと立ち止まった泰継の言葉に、必死に息を落ち着けながら、花梨と彰紋はうなずく。
 あの向こうにいる、というのが分かった。
 心なしか辺りが白く明るい。
 いくら晴れた夜とはいえ、これは月の光のせいではない。
 泰継の背中からその先に視線を移した花梨は、刹那、

「幸鷹さん!?」

 思わず大きな声をあげて駆け出していた。

「神子!」

 彰紋と泰継が同時に声をあげたが、花梨には聞こえていなかった。

「幸鷹さん!」

 もう一度彼を呼んでみる。
 だが、仰向けに倒れている幸鷹はいつものように花梨に微笑みかけてはくれなかった。
 近くには貴族と思しき男たちも数人倒れていたのだが、今の花梨には幸鷹しか移っていない。
 幸鷹の傍らには、先ほど内裏で見た女性の姿があった。
 彼女の手の中にある、あの白い珠は一体なんだろう。
 ぞっと、花梨の背中に悪寒が走った。

「だっ、だめっ! やめて!」

 花梨は幸鷹に駆け寄ると、彼の体を抱き起こした。
 ひざの上にぐったりと頭を預ける彼は、相変わらず目を閉じたままだ。
 だが、体は温かい。
 鼓動も聞こえる。
 死んでいるわけではない。
 それだけは救いだった。
 ともするとこぼれてしまいそうな涙をこらえるようにぐっと唇をかみ締めながら、花梨は件の女性を見上げた。
 近くで見るとより彼女の美しさに気がつく。
 生前はさぞ男性の心を騒がせただろうと思われた。
 その中に、幸鷹も入っていたのかもしれない・・・そう考え、あわてて花梨は首を振った。

「お願い! 幸鷹さんを連れて行かないで!」

 ぎゅっと彼の身を抱き寄せながら、気がつくと花梨はそう叫んでいた。

「この人は大切な人なの! 絶対いなくなってほしくないの!!」

「神子、下がれ」

 泰継は札を取り出した。女の霊がびくりと身を震わせる。

「ま、待ってください、泰継殿」

 あわてて彰紋が女と泰継の間に割って入った。

「落ち着かれてください。僕たちはあなたに危害を加えようと来たわけではないんです」

 さすが東宮。さすが彰紋。彼の一言で女の霊の表情が和らいだ。

「先ほどは、驚いてしまってお話も聞けませんでしたが、一体あなたの身に何があったのです? どうしてそのような姿に・・・」

「彰紋様・・・」

 初めて直接はっきりと聞いた女の声は、鈴を転がしたように可憐だ。
 彼女は悲しそうに顔を伏せた。

「私は死んだのです。不用意に、御車の前へ飛び出してしまったので」

「どうして。どうして車の前になど・・・」

「その方の御車だと、勘違いしたのです」

 彼女は視線を幸鷹に落としながらそう言った。

「え?」

 その言葉に花梨が顔を上げた。

「あなたは幸鷹さんとお知り合いだったんですか?」

「命を救っていただきました」

 霊だというのにいつも対峙する怨霊のような禍々しさはない。
 こうしてはっきりとものをしゃべる霊と会うのも、花梨は初めてだった。
 彼女は幸鷹と会ってからの経緯を淡々と語った。

「・・・この方は、最後までご自分のお名前を明かされませんでしたが、そうですか。藤原の家の方だったのですね」

「どういうこと?」

「・・・それは、私の父が彼女の一族を没落させた張本人だからですよ」

「!」

 花梨の疑問は思わぬところから聞こえた。
 彼女のひざの上で、さっきまで目を閉じていた幸鷹が、花梨と目が合ったとたん優しく微笑みかけた。

「すみません。神子殿。お見苦しいところをお見せしました」

「えっ、あっ、い、いえっ!」

 とっさにどう反応してよいか分からぬ花梨は、あれだけ望んだ幸鷹の目覚めに、喜びを感じる余裕さえなかった。
 そんな彼女にひとつ笑みをこぼすと、幸鷹は身を起こした。
 じっと女の霊を見つめる。

「あなたがこのことを知れば気を悪くされると思い、黙っていました。敵の一族の手を借りるなど、快いものではないでしょう。でも、私はこの京を守る人間として、あなたをあのまま放っておくことはできなかったのです」

「いいえ、いいえ。あなたを恨むなど。私はあの時あなたに救われました。それなのに、不注意でせっかく救っていただいた命を落としてしまいました」

「・・・あなたは、私の車と間違えて飛び出してしまったのですね」

 どうやら幸鷹はその辺の会話をちゃんと聞いていたらしい。

「申し訳ありません。ずっと、お礼を言いたかったのです。初めて会った私に親切にしていただいた方、皆さんに」

 女は彰紋のほうを向くと、深々と頭を下げた。

「彰紋様にもお世話になりました。本当に、ありがとうございました」

「そんな・・・。僕は何もできませんでした。すみません・・・」

 うなだれた彰紋に、女は首を振った。

「私はたくさんの恩を受けたのに、生前は返すことができませんでした。ですからせめて、この先のない世から浄土へお連れすることしかできないのです」

「ま、待って! だめ! だめだよ! 絶対そんなことないもの!」

 花梨は知らぬうちに幸鷹の衣の袖を握り締めていた。

「確かに怨霊はいるし災害もあるけど、でも、全然だめってわけではないもの! この世に先はないなんて、じゃあ、あなたを助けた幸鷹さんが今やっていることは無駄なことなの? 幸鷹さんはこの京を良くしようと頑張っているのに、先がないなんて言ったら幸鷹さんのことを否定しているのと一緒だよ!」

「神子殿・・・」

 幸鷹は自然と浮かぶ笑みを抑えることができなかった。

「だから、幸鷹さんも彰紋くんも連れて行かないで」

「ええ。分かっておりますわ」

「え?」

 彼女はあっさりとうなずいた。あっけにとられた花梨に、にこりと笑む。

「彰紋様も幸鷹様も、それをお望みではありませんでしたので」

「じゃあ、彰紋くんの部下の人は? あの人は望んだの?」

「・・・あの方は、私を好いてくださっていたのです。私が死んだことを知るや、この世にいる意味はないと・・・」

 照れたようにややうつむく霊に、一同はぽかんとあっけに取られた。あの泰継でさえ目を丸くしている。
 人の魂を抜く霊、ということで勘違いしていたのかもしれない、と花梨は思った。不思議とこの霊は世の中の道理を全てわきまえているようだった。決して相手に理不尽となるようなことはしない。つくづく変わった霊だ。

「皆様にお礼を申し上げることができた・・・これでもう、この世に未練はありません」

 肩の荷が下りたという感じで、彼女はほっと息をついた。

「もとより自分の命に執着はありません。これで、ようやく・・・」

 どうやら彼女は花梨の手を借りずとも、自分で行く道が見えているようだ。だんだんと透けてゆく彼女を見つめていた幸鷹が、はっとしたように顔を上げた。

「先ほどは、助けていただき、ありがとうございました」

 幸鷹の脳裏に、男たちの刃が迫りくるのが浮かんだ。きられる、と思った瞬間、目の前が真っ白になったのだ。
 気がつくとどういうわけか男たちは地面に倒れており、目の前には彼女が立っていた。
そして、どうぞ、と差し伸べられた手を、幸鷹は拒絶したのだった。
 何故彼らが気を失ったかは分からない。だが、彼女の何らかの力が働いたのだろう。それだけは分かった。彼女が助けてくれなければ、幸鷹は血まみれで倒れていたことだろう。

「あなたの身は、必ず手厚く弔います。あなたを死に追いやった者は誰であろうと許しません。ですから、どうか、安心して眠ってください」

「――――ありがとうございます」

 最後に微笑んだ顔は、まるでそこだけ春が来たようにあたたかく咲いていた。
 彼女が消えたあとは夢でも見ていたかのような気がして、しばらくその場に立ち尽くしていた四人だったが、

「うっ・・・」

 男たちのうめき声が聞こえたとたん、幸鷹の顔が引き締まった。

「幸鷹さん、この人たちは?」

 そういえば、この人たちは誰なのだろう。
 その疑問を代表して花梨が問うと、厳しい表情の幸鷹が彼らの正体を明かした。

「えっ・・・!?」

 今宵、珍しいことに二度も泰継が目を瞠った。







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