雪月譚 7
火鉢を囲んでの楽しいおしゃべりは夕刻まで続いた。
今日は内裏も混乱していて、不用意に外へ出ないほうが無難だと判断したからだ。
途中から紫も加わって、とりとめもない会話をしていたというのに、気がつけば時間を忘れていた。
楽しい時間はあっという間だ、と言う皆を送り、紫も自室へと引き上げていった。
一人になって、花梨はもう一度文を開いた。
灯台の明かりに照らされて、はっきりと文字が読める。
――――今宵、お部屋にうかがいます。
たったそれだけしか書かれておらぬ文に、花梨の胸はこれ以上ないくらい高鳴っている。
これって、まさか、その・・・深い意味はないよね?
必死に自分に言い聞かせる。
そうだ、きっと正面から入ってくるに違いない。
紫姫に案内されて、いつもみたいに入ってくるのだ。
変に疑っては幸鷹に失礼だ。
うんうん、と何度もうなずいてみるが、次に浮かぶのは例の疑念だった。
「あー、もう! 来るなら来い!」
「はい。来ました」
「へっ?」
まさか返事があるとは思わなかった花梨は、はっとして振り返った。
そこには、幻などではない、彼女の動揺の大元、本物の幸鷹が立っていた。
「ゆ、幸鷹さんっ」
「しっ! ・・・すみません。遅くの訪問はこちらの屋敷の方の迷惑になりますので、こっそり忍び込んできたのです」
「そ、そうなんですか」
落ち着け、落ち着け、と何度も自分に言い聞かせながらも、花梨は自分の声がいつもより高い気がした。
それと悟られないよう、あわてて話題を探す。
「そ、そういえば、昨日の犯人は無事捕まったみたいですね」
「ええ。帰ってから夜通しあの者たちを尋問いたしましたから」
あの者、と言うのは昨夜幸鷹を呼び出した奴らのことだ。
「えっ、じゃあ、幸鷹さん。もしかして全然寝ていないんですか?」
「はい。そうですね」
「大丈夫なんですか? つらくないですか?」
「神子殿・・・」
己の身を案じてくれる少女に、彼は極上の笑顔を見せた。
「心配してくださって、ありがとうございます。でも、私は平気です。犯人も捕まえたことですし、今日はゆっくり休めそうですよ」
「あ、そ、そうですよね」
あはは、と花梨は笑いながら自分のいかがわしい疑念を振り払った。
もう、心配して損した。
幸鷹さん、おうちでゆっくり寝るつもりだもん、緊張する必要なんてなかったんだ。
そう思うともう平気だった。
「みんな今日はその話で持ちきりでしたよ。イサトくんなんて、今回の事件、幸鷹さんと彰紋くんが取り合った女の人を殺されたから、すごい怒ったんだって言っていましたよ」
「なっ・・・だ、誰がそんな噂を・・・」
「市でみんな言っていたって言ってましたよ。それに、泉水さんも似たようなことを言っていたし・・・」
「・・・・・・」
やれやれ、といった感じで幸鷹が指を振る。
急に疲労の色が濃くなったのは気のせいだろうか。
「それで、実際のところ、どうなんですか?」
「神子殿!」
顔を赤くして怒る幸鷹は、年齢以上に幼く見える。
普段引き締まった表情をしているだけに、こういう姿はとても新鮮だ。
くすくす笑う花梨に、幸鷹は咳払いをした。
「・・・とにかく、そのようなことはありませんので。・・・あ、いや・・・」
「?」
ふと何か思いついたように視線を遠くにさまよわせると、幸鷹はにっこり微笑んだ。
「でも、ちょうど良いカモフラージュなのかもしれません。・・・私が、神子殿をお慕いしているということの」
「えっ? あっ!」
花梨が二つ、驚きの声をあげたときには、もうその身は幸鷹の腕の中にあった。
安心していたところの不意打ちだ。
花梨の鼓動はあまりの衝撃に急激に速くなっていく。
「神子殿はどうも警戒心が欠けていらっしゃる。昨日も、私が止めたにもかかわらず、事件に首を突っ込んで、色々と調べまわっていたみたいですね」
「そ、それは・・・」
やはり幸鷹は気づいていたのか。
棚上げになったとばかり思った話を蒸し返されて、花梨はばつが悪そうにすみませんと呟いた。
「どうして私が止めたか、あなたにお分かりになりますか?」
互いに相手の肩にあごを乗せているため、その表情は分からないが、いつもよりかすれた声で、耳元でささやかれては、花梨は言葉もない。
問いかけにも首を振るのが精一杯だ。
そんな彼女にふっと笑みを零す幸鷹。
微笑みの欠片が花梨の首筋を掠め、そこから更なる熱が生じる。
「私も分からなかった。何故あれほどあなたをお止めしたかったのか。はじめは、あなたの身に危機が及ぶのを危惧しての行動だと思っていました。でも、違ったのです」
「ゆ、幸鷹さん・・・」
幸鷹はそっと腕の力を緩めた。
そしてうつむく花梨の顔を上げさせると、真摯な目で見つめてきた。
緑色の目が、花梨の視線をとらえて離さない。思わず見入ってしまう。
「――――私は、あなたが誰かと行動するのが許せなかったのです」
幸鷹は昨日の朝の光景を思い出していた。
聞き覚えのある声。
どんな音より印象深く鼓膜を刺激する。
名前を呼ばれたときは、仕事中であるのにそのことが頭の中から飛んだ。
だが、振り返ったときにいたのは、彼女だけではなかった。
余計なお供が二人もついていたのである。
「私はあの時、あなたの隣に自分がいないのが、とても悔しかった。それなのに、事件を追うなどとなれば、他の方との行動がまた増えてしまいます。・・・それが、本当に許せなかった」
幸鷹は一緒に行動したくとも、検非違使別当としての仕事があってそれはかなわない。
同じ事件を追うとはいえ、まさか職場に彼女を同行させるわけにはいけないのだ。
彼女が動くとなれば、同行者が必要だ。
しかし、それは自分ではない誰か。
そんなことが我慢できるだろうか。
答えは否、だ。
「自分でも子どもじみていると思うのです。ですが・・・すみません」
幸鷹はすっと花梨に顔を近づけた。
「幸鷹さん・・・」
瞬きすら忘れたかのようにじっと幸鷹を見上げる花梨の頬に、彼はそっと唇を寄せた。
「!」
幸鷹の顔が離れたところで、ようやっと花梨は何が起こったか気がついた。
火が出そうなくらい顔が熱くなる。
「あの、そ、そ、そのっ、えと?」
「すみません。お嫌でしたか?」
「ち、違います! そんなこと・・・」
「・・・良かった」
ふわりと幸鷹の顔に笑みが戻った。
「あなたに拒絶されたら、私は二度とこちらのお屋敷へは参れないところでした」
「そんな、大げさな・・・」
「いえ、実はそういう覚悟もあったのですよ。翡翠殿ではあるまいし、夜半に女性の部屋を伺うなど、まるで夜這いですからね」
「ゆ、幸鷹さん!」
慌てふためく花梨に、幸鷹は声を立てて笑った。
本当に楽しそうな訪問者の様子を恨みがましそうに見返しながら、
「もう、結局幸鷹さんは、何をしに来たんです?」
花梨はやや語気を荒げて照れ隠しにそう問うた。
からかわれていることは明らかである。
そんな空気を変えたくて言った一言だったのだが、それに対して幸鷹は目を丸くした。
「幸鷹さん、お疲れのようですし、要件を済ませて早く休んだほうが良いんじゃないですか?」
「目的を遂げてしまっても、本当によろしいのですか?」
「? そのために来たんじゃないんですか?」
首をかしげた花梨は、次の瞬間、
「へ? えっ?」
目の前がひっくり返った。
とん、と背中に床の感触。
視線の先には見慣れた天井、そしてそれを遮るように幸鷹の顔・・・しかもどアップ。
押し倒されたと気づくまでにしばし時間を要した。
端正な顔はうつむくと無駄に愁いを帯びて、余計に花梨の心をとらえて離さない。
彼の顔をこんな身近でじっくりと眺めたことはなかった。
艶っぽい甘やかなそれに言葉を奪われてしまったかのように、頭が真っ白になる。
「・・・先ほども申したでしょう。あなたは無防備すぎるのです。夜、男を部屋に入れるなど、その先どのようなことがあるか、分からないほど神子殿も子どもではないはずです」
「で、でも、幸鷹さん、今日はゆっくり休むって・・・」
「ええ、あなたを腕に抱きながら、ね」
「えっ・・・!?」
完全に油断しきっていた。
やっぱり、幸鷹はそういう意味で訪ねてきたのだ。
「あなたが悪いのです。こうして、人払いまでなさって・・・」
「え? い、いえ! 人払いなんて」
と言いつつ、そういえばあたりには誰もいないことに気づく。
ますますもって、こういうことに慣れていない花梨にとっては、どうして良いのか分からない状況だ。
幸鷹はしばらく、赤くなって困惑する花梨の様子を眺めていたが、
「・・・ふふふっ」
吹き出したかと思うと、あっさり身を引いた。
「幸鷹さん?」
彼の行動をどう解釈して良いのかわからぬ花梨は、視線は幸鷹にとどめたまま、ゆっくり身を起こした。
「今宵は、これで失礼します」
「え?」
急にどうしたというのか。
何か気に触るようなことでもしてしまったのか。
幸鷹のあまりも唐突過ぎる行動に、花梨の思考回路は完全に渋滞している。
何が何やらさっぱり分からない。
しばし笑ってから、ようやく幸鷹が口を開いた。
「大丈夫、あなたを困らせることはいたしません」
さっきからずっと困らされているんですけど、という言葉はかろうじて飲み込めたが、口には出さずとも幸鷹には伝わったようだ。
「あの・・・その、多少自分を抑えられない場面もありましたが」
ごほん、と誤魔化すように咳払いをする幸鷹の頬も、ほんのり赤く染まっている。
照れているのは自分ばかりではなかったのだと気づくと、ようやく花梨に笑みを浮かべるだけの余裕ができた。
「もう、慣れないことするからですよ」
「ごもっともですね」
目が合うと、二人はどちらからともなく微笑んだ。
それだけで嬉しく思えるのだから不思議だ。
「本当は、あなたと二人でゆっくりお話したかったのです」
そういえば、昨日も今日も、腰を落ち着けて話す時間はなかった。
「・・・本当に私はだめですね。あなたにお会いしたいと思い始めたら、止まらなくなってしまって。こんな夜更けまで押しかけてしまい、申し訳ありませんでした」
「そんな! 私も幸鷹さんとお話できて、とても嬉しかったです」
「・・・神子殿、そう言っていただけると、何と申して良いか・・・」
幸鷹は律儀にも深々と頭を下げた。
「私の用というのはあなたとお話しすることです。その目的は達しました。気づけばずいぶんと長居してしまいましたね。そろそろお暇いたしましょう」
「あっ」
すっと立ち上がった幸鷹の衣の裾を、花梨はとっさにつかんだ。
「? 神子殿?」
「あ、あの・・・」
言いにくそうに何度もためらった花梨だが、いつまでも悩んでいてはいけないと、首をかしげる幸鷹を仰いだ。
そして、一言。
「あ、あの、さっきの・・・」
「え?」
「びっくりしただけで、その・・・私、別に嫌なわけではないですよ」
「!」
想像だにしなかった返答だったのだろう。
幸鷹の目は限界まで見開かれた。
恥ずかしさで顔を伏せてしまった花梨をしばらく呆然と凝視する。
花梨は花梨で、もしこれで幸鷹が気分を害していたらどうしようと、今更取り返しがつかぬことを案じていた。
言葉もない時間がどれほどすぎたか。
「・・・神子殿」
二人を再び現実に戻したのは、幸鷹のほうだった。
「ええ、分かりました」
遅ればせながら湧き上がる歓喜を満面の笑みで表現しながら、彼は声を潜めて花梨に告げた。
「では、先ほどの続きは、全てが終わったあとで」
花梨は「はい」とうなずくのが精一杯だった。
その後、検非違使別当と東宮を巡る噂は尾ひれもつき、一時は京の都を大いに盛り上げた。
しかし人の噂も何とやら。
いつの間にか人々の口には上らなくなった。
それに関しては、当の本人が一番ほっとしたことだろう。
検非違使別当の色恋の噂が再び上がるのは、これからもう少し先の話――――
終