届けたい想い 1
「ふう、やはりここは落ち着くな」
ハイカラヤの一押し甘味であるあんみつを軽く平らげて、九段は満面の笑みを浮かべた。
その食べっぷりには向かいにいた梓も感心するばかりだが、もうすっかり見慣れたのと、実に幸せそうな顔をするのとで、自然とほっこり心が和むほうが多くなった。
九段は甘味のお代りを頼むべくメニューを手に取りながら、梓のカップにも目を向ける。
「おや、ぬしも空ではないか。もう一杯淹れてもらってはどうか」
「そうですね、いただきます」
「うむ、それが良い。ではマスター。こちらに桜餅と珈琲を」
実に慣れた様子で注文し終えると、九段はすっと背筋を伸ばした。
「梓、ぬしの働きぶりには感謝するばかりだ。今日はささやかながら、我からその礼をさせてほしい。ここならばぬしもくつろげるし、味も保証済みだ。存分に甘味を頼んでくれ」
――――邪神を退けた後、こちらに残った梓は、未だに軍邸で生活を続けていた。
禍津迦具土神が去り、帝都市民がほっとしたのもつかの間。
九段の転送布陣により、軍の卑劣な計画が民衆の目に明らかとなって、帝都中は騒然となった。
強兵計画に神の加護はない。
それどころか人の心身の自由を奪い、無理矢理強兵に仕立て上げ、結果その欲望や野心が邪神の力の源となっていた。
信じがたい事実に誰もが衝撃を受けた。
当然、強兵計画は即刻中止。
計画の指揮をとっていた参謀総長自らも、一時は邪神に体を奪われていたために意識を失ったままだから、帝国軍の高官たちは誰が責任をとるかで大いに混乱した。
その間、村雨たち「結実なき花」の一同は、卑劣な強兵計画のあり様を各所で説明し、是非を市民に説いて回った。
根気のいる活動ではあったが、東京駅での演説以来すっかり有名人になっていた村雨の言葉に耳を傾ける市民がほとんどだった。
強兵計画に巻き込まれてしまった若者たちは皆、病院での治療が続いている。
その様を見た市民たちは、ようやく軍政のあり方を考え始めた。
かくして形勢は逆転。
暴徒の汚名を雪ぐ形で、逮捕されていた「結実なき花」のメンバーも釈放された。
こうしてハイカラヤが再び店を開けることになったのも、喜ばしい限りである。
自ら考え、行動する。誰かに頼りきりになって、無関心になるのではなくて、一人一人が帝都を良くするために尽くす。
そんな考えの人たちが増えてきた。
混乱を極める帝国軍だが、市民の治安を守る役目を担う以上、やはり彼らは必要な存在だ。
だが市民からの厳しい視線にさらされたのも事実。
有馬や秋兵、九段はいち早く自衛団を作り上げ、早くから治安維持に乗り出していた。
幸い、日頃からの精鋭分隊の活躍ぶりは知られていたし、神子捜索のときにも市民と一緒に協力していたから、自衛団自体の評価は悪くなかった。
けれどやはり帝国軍の所属であることに変わりはない。
何となくの不安は拭えずにいた。
そこで、救世主たる神子が自衛団の支援に回ったのだ。
もう神子としての力はなくても、大尉という肩書はまだ残ったままだ。
「神子も一緒に軍政の改革に乗り出している」
そう広めたのは村雨たちだ。
帝都を良くしていくために、軍も鬼も市民も関係ない、帝都に住む誰もがそれぞれの役割を果たすことが必要である、という考えは今や帝都中に広く伝わっていた。
「はい、お待ちどうさま。桜餅と珈琲」
マスター自らが運んできた皿には、桜餅だけではなくカステラやら羊羹やら饅頭やら、甘味が山盛りになっていた。
「おお、これは・・・!」
すかさず九段の目が光った。
「今日は特別サービス。いつも頑張っているご褒美にね」
「何と、それは嬉しい」
うきうきと皿から甘味をとりわける九段を尻目に、マスターはこっそりと梓に耳打ちする。
「ここんとこ、忙しくて全然村雨と会えていないんでしょ?」
「ご存知だったんですか?」
「日に日に村雨の不機嫌さが増しているから。これはきっと梓ちゃんと会えていないんだなって。正解みたいね」
帝都の立て直しのために、梓も村雨もそれぞれの立場から動きまわっている。
本当は、村雨のもとへ飛び込んでいきたいのだが、そんな無理を言ったら彼を困らせるのは明らかだ。
それは梓の本意ではない。
自分に出来ることはしていきたいし、彼と対等に並び立つにはちゃんと自立していなければと思う。
神子だった自分に出来ることをして、ようやく帝都の一員と認められるのではないかと梓は考えていた。
そうして初めて、村雨の隣にいることを、自分自身が許せる。
村雨に頼りきりになるわけにはいかなかった梓は、ここに残ると決めた以上は、自分に出来る限りのことは尽くさなければと、目の前の仕事に必死になっていた。
村雨は村雨で、執筆活動に加えて各所で演説会を開く日々だ。
さらに政党を作る動きは着々と進行中である。
こうなってくれば、忙しさは以前よりも段違いに増す。
自然と会う機会は減っていた。
「いっそ軍邸じゃなくて、こっちにいらっしゃいよ。押しかけ女房になっちゃいなさいな」
「それは・・・村雨さんの困る顔しか浮かばないです」
「そうかしら? 嫌な気はしないと思うんだけど」
帝都を立て直す、という大事業に取り組んでいる村雨に迷惑をかけたくない。
毎日会いたいとか、一緒にいたいとか、それはきっと我儘だ。
「あんまり無理言って、村雨さんを困らせたくないんです。今は、私の想いを受け入れてくれたことで十分です」
頑張り続けていたら、いつか認めてもらえる日が来るかもしれない。
そうしたら、二人の関係が発展することもあるだろう。
だから、それまではこれ以上を望んではいけない。
その分頑張らないと。
「梓ちゃん、あのね・・・」
マスターは何か言いかけて、何度かその先を口にしようとしたが、結局言葉を飲みこんでしまった。
代わりにカウンターへ戻っていくと、今度は山盛りのパフェを持ってきた。
「あ、あの・・・?」
「いいの、アタシからの差し入れ! これで元気になって、明日からまた頑張って頂戴!」
「ありがとうございます」
目の前からは九段の歓声が上がったが、梓の耳には遠かった。
「アタシの口からは詳しく言えないけど、村雨のこと、もうちょっと待っていてあげてね。あれで色々考えているのよ。梓ちゃんの信頼を裏切る真似は絶対にしないから」
「はい!」
マスターはそれだけ言うと、忙しそうにカウンターへ戻っていった。
心から気遣ってくれているのが分かって、心が温かくなった。
目の前の巨大パフェは思いやりの塊のように見えて、スプーンを入れるのが勿体ない。
「ふふ、甘い」
心にしみるような甘さだ。
テーブルの中心に置かれていたはずの山盛り甘味は、いつの間にかほとんどなくなっていた。
「今日はハイカラヤに来て、本当に良かったな」
「そうですね」
心行くまで九段と一緒に、甘味と珈琲を楽しんで、梓の久々の休日は過ぎていった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
ハイカラヤでの休日から数日後。
いつものように帝都の巡回をして軍邸に戻ると、夕暮れの中、門の前に見慣れた人物を見つけた。
「村雨さん!?」
梓の声が聞こえたのだろう、村雨は顔を上げて近づいて来た。
「どうしたんですか? 何かあったんですか?」
「いや・・・」
村雨は珍しく言葉を濁している。
いつもははっきりと意思を伝えるのに珍しい。
連絡もなく突然軍邸まで訪ねてきたのだから、よほどの用事なのだろう。
「中でお話をうかがっても良いですか?」
そんなに深刻な話ならば、立ち話ではなくちゃんと聴いた方が良い。
この時間なら、夕飯も一緒に摂れるかもしれない。
そんなことを考えていると、ちょうど外出先から戻ってきた九段が一緒になった。
「おや、村雨か。久しいな。軍邸まで訪ねてくるとは珍しい」
「・・・九段」
村雨は九段を見るや、梓の手首を掴んだ。
「え?」
驚く間もない。
「悪いがこいつを借りていく」
「これからか? 帰りはどうする」
「ちゃんと送り届けるさ。最も、今晩中に帰せる保証はないから、明日になるかも知れんがね」
「え、ちょっ、村雨さん!?」
村雨は乱暴に会話を終えると、梓を引っ張って歩き出した。
「うむ、気をつけてな」
意味が分かっているのか全然分かっていないのか、いまいち判然としない九段の返事が聞こえてきたが、村雨は何も返さなかった。
強引に連れ出されながらも、こうして村雨と会うのは久しぶりだ。
驚きはあったが、すぐに一緒にいられる喜びのほうが増した。
並んで歩くなんて、どのくらい振りだろう、なんてのんきに考えてしまう。
村雨の足はまっすぐ、ハイカラヤに向かっていた。
「皆さん集まって、集会をしているとか?」
そこに呼ばれるということは、きっと仕事の話だ。
このところ、結実党の結成は大詰めの段階まで来ている。
梓は結成の手伝いもしていた。
今夜中に帰れるか保証がないと言っていたところから察するに、込み入った難しい話なのかもしれない。
二人きりで歩けるという甘い感情は、ハイカラヤへ辿りつく前に切り替えなくては。
よし、と気合を入れた梓だが。
「え? あの、村雨さん」
「どうした」
「こっち、裏口じゃ・・・」
「ああ、そうだよ」
宵の口の今時分の店内は、仕事帰りの人々で昼間とはまた違った賑わいを見せているはずだ。
しかし梓の予想とは反して、村雨は裏口からそっと、だが有無を言わさず梓を招き入れると、そのまま誰にも声をかけることなく二階の自室へと連れていった。
階下の賑わいは微かに聞こえるだけで、久々に入る村雨の部屋は、変わらず静かに梓を迎えてくれた。
珈琲と煙草の匂いに胸が疼いた。
「あの、村雨さ・・・」
不意に言葉が途切れる。
間近に迫った広い胸の温かさに溶けるように。
それが抱きしめられたからだと気がついたのは、二呼吸ほど置いてからだ。
「――――」
驚きはすぐに静まった。
代わりに胸に広がったのは安堵。
絶対的な安心感に、つい気が緩んだ。
「泣いているのか?」
「え・・・?」
指摘されて、梓は初めて自分の双眸から涙がこぼれているのに気がついた。
どうして、こんなに胸が詰まるのだろうか。
なかなか止まらない涙に動揺している梓を、村雨はさらに強い力で抱きしめる。
「あんたはいつだって肩に力が入り過ぎだ。無理しなくて良い」
「私、無理なんてしていません」
「そうか。じゃあ、なかなか会えないことを寂しがっていたのは、俺だけかい」
「っ、それは、私だって・・・!」
梓は顔を上げた。
寂しかったに決まっている。
毎日会えないことを残念に思わない日なんてなかった。
ずっと一緒にいたいと思っている。
「!」
とっさに反論してから気がついた。
視線の先にいた村雨は、ほらやっぱり、と苦笑いを浮かべていた。
――――もしかして、言わされた?
素直に「寂しいか?」と問われたら、きっと梓は首を横に振っていただろう。
村雨に迷惑をかけたくない、という思いがあるから。
普段は本心を隠しているつもりだった。
けれど村雨には、そんな強がりもお見通しのようだ。
「・・・ずるい」
小さく呟いた一言を聴きとめた村雨は、鼻で笑って一蹴する。
「あんたが分かりやす過ぎるんだ」
彼の大きな手が、梓の頭をくしゃりと撫でた。
それでも頬を膨らませている梓を、村雨は愛おしそうに見つめている。
「・・・別に、我慢する必要なんてないだろう。会いたくなったら、いつだってここに来ればいい。あんたなら、好きに出入りしてくれて構わないんだから」
「そんなこと言ったら、毎日来ますよ。用事がなくても、毎日毎日」
「何の問題があるんだ。恋人を訪ねるのに、会いたい以外の理由が必要なのか?」
「!?」
梓はびっくりして村雨を凝視する。
「良いんですか?」
「良いも何も、現に俺は今、あんたをここに連れてきてるだろう。誰にも邪魔されることなく、あんたを独り占めするために。別に仕事の用事なんかないよ」
そう言うことをさらりと言ってしまうから、いつだって梓は村雨に敵わないと思う。
間近に香る珈琲と煙草の匂いが、梓の心を簡単に捕えてしまう。
ドキドキしていることも、嬉しくてたまらないことも、やっぱり村雨が好きなのだということも、全部全部筒抜けなのだろう。
梓は真っ赤な顔を隠すように俯きながらも、村雨の背に腕を回す。
細腕にぎゅっと力を込めると、宥めるように抱き返してくれる彼の優しさが胸を満たす。
嬉しいはずなのに、嬉しすぎて息が詰まる。胸が痛い。
自然と溢れだす涙の正体が分からなくて、梓は村雨の胸に顔を埋めた。
「・・・本当に、あんたは正直だな」
どこか満足そうな村雨の呟きが、遠くの喧騒よりも強く梓の耳朶を打った。