届けたい想い  2






「・・・・・・?」


 薄明かりに誘われるように、ゆっくりと梓は目を開けた。
 ぼんやりしている。
 ここはどこだろう。
 自室・・・ではない。軍邸でも、元の世界でもない。


 ここは・・・。
 すぐに見覚えのある広い背中を見つけて、ああ、そうかと合点がいった。
 村雨の部屋に来ていたのだった。
 抱きしめられるうちに安心して、寝てしまったようだ。


「っ・・・」


 こんなことでは、また子ども扱いされてしまう。
 がっくりとうなだれる梓。
 彼が掛けてくれたのだろう、毛布の温かさが逆に梓に追い打ちをかけているように感じられた。


 どうやら夜もどっぷり更けたらしい。
 階下の喧騒は既に治まっており、静まり返った部屋の中でただ一つ、主の立てる音ばかりが響いている。


 仄かな電灯のもと、村雨は机に向かっていた。
 かりかり聞こえるのは、万年筆が物語を紡ぎ出す音だ。
 小説家としての仕事がまだ残っているのだろう。
 いよいよ忙しさも増してきたので、今手がけている作品を機に執筆活動は休業すると聞いていた。


 彼の作品を読めないことは残念だが、その分新作は随分と気合い十分に作られているようだ。
 これまでは梓が口述筆記を務めていたが、今回はよほど渾身の一作なのか、出来上がるまで待っているよう村雨に言われていた。
 どんな内容なのか、楽しみばかりが増す。


 ――――この人は、私に喜びばかりもたらしてくれる。けれど私は、何か返せているのだろうか。


 出会った頃から村雨は梓を気にかけていた。
 さり気ない気遣いは、いつだって気がつくのが遅くて、いつもお礼を言い損なっている。
 気にするな、とそのたびに彼は言ったけれど。
 ほんの少しでもいい、彼に返せるものは何だろうか。


「あ・・・」


 そうか。
 梓はゆっくり起き上がると、


「!?」


 村雨の背に抱きついた。
 背中越しに彼が息をのんだのが分かった。


「高塚、起きたのか」


 よほど集中していたらしく、ようやく梓の目覚めに気がついたようだ。
 梓が村雨に返せるもの。
 それは何だろうかと考えてみたら、一つしか思い浮かばなかった。


 ――――それは、想い。


 梓がどれほど彼を恋い慕っているか。
 胸が痛くなるほどの恋情を伝え続けることが、自分に出来ることなのだと思った。
 それならば、彼にだって負けない。


「好きです」

「っ」

「村雨さんのことが好き。大好き。優しいところも、温かいところも、頼もしいところも、ちょっと意地悪なところも、全部全部大好きです」

「高塚」

「――――愛しています」


 その一言を告げるのに、これまでは恥ずかしくてたまらなかった。
 でも今は自然と告げられた。
 意識したわけではなくて、勝手に零れた。
 それが嬉しかった。


「・・・あんたって奴は」


 そこまで言いかけたところで、何を思ったのか、突然村雨は梓の腕を掴んだ。
 無理矢理戒めを外させると、くるりと反転する。
 恐ろしいほど真摯な目が梓を捕えた。


「あんたはこんな状況でそれを口にしたらどうなるか、分かっているのか?」

「え?」

「こんな夜更けに男女が二人きり。しかも恋人同士だ。これでも俺だって男なんでね。人並に煽られもする」

「あ、あの・・・」


 戸惑う梓を、村雨は流れるような動作でそっと押し倒す。
 視線の先に天井が来て、その間に村雨の顔が迫ったときに、初めて梓は己の置かれている状況が分かった。
 さっと顔色を変えたのが可笑しかったのか、村雨は少しだけ口の端を上げた。


「あんただってもうガキじゃないんだ。この先どうなるかくらい、予測できるだろ」

「あ、えっ、村雨さん・・・!」

「ったく」


 真っ赤になって固まる梓を見て、あっさり村雨は身を起こした。
 橙色の電灯のせいか、いつもより赤みが差しているように見えるその顔を隠すように、ついと背中を向ける。


「分かったなら、不用意な発言は慎むこった。身を滅ぼしかねんよ」


 そう言って、再び机に向かった。
 もう先ほどの通りだ。


「――――っ、村雨さん!」


 梓はその背を追い掛けて、夢中でしがみついた。


「! だから、あんた、まだ分からんのか」

「分かってないのは、村雨さんの方です!」


 何故か泣きそうになりながら、必死で村雨の服を掴む。


「ちゃんと分かってます。でも、緊張するのは仕方ないじゃないですか。初めてなんですから」

「高塚」

「初めてこんなに人を好きになったんです。・・・そりゃ、人生経験の多い村雨さんからしたら、おかしなことをしているって思うかもしれませんけど」


 自分で言っておきながら、自分の言葉に傷つく。
 彼との差はまだまだ埋まっていないのかもしれない。
 大きな試練を乗り越えて、同じ未来を見据えていても、やっぱり村雨に助けられることの方がずっと多いと梓は思う。


 でもやっぱり、この思いだけは捨てられない。
 どんなに離れていても、彼の隣を対等に歩けるようになりたい。
 そのためならば、どんな努力も惜しまない。
 梓の覚悟は決まっていた。


「もし、この想いを貫くのに必要なら、私を女にして下さい」


 何て大胆なことを言っているのだろう。
 たまに、自分が自分でないように思うときがある。
 以前も同じようなことがあった。
 あのときは結局、彼を動かすには至らなかった。


 では、今は?
 まだ彼を動かすことは出来ないのだろうか。
 不安と恥ずかしさで震えているのを隠したくて、いっそう指に力を込める。


「・・・・・・」


 随分と長い沈黙があった。
 寸暇のことであったかもしれないが、梓には恐ろしく長い時間に感じられた。


「・・・・・・本当に、あんたは恐ろしいな」

「え?」


 ぽつりと零れた村雨の呟き。
 諦観の念のこもった一言に、梓が身を強張らせる。
 そんなこともお見通しとばかりに、村雨はそっと彼女の指をとる。
 ゆっくりと引きはがす代わりに、夢のような幻想的な作品を生み出す指が、梓のそれを絡め取った。


「なんでだろうな。こっちが臆病になっていると、あんたはいつだって、俺の望む言葉を言い当てちまう」


 いとおしむように指を絡めた後、再び村雨は梓と向き合う。
 未だ不安そうな表情の梓の顔を見て、何故か彼は笑った。


「・・・村雨さん、ひどいです」

「仕方なかろう。あんたにそんな顔させているのは、俺を思う故だと思ったら、喜ぶ以外ないね」


 村雨の言葉の意味を理解しきれなくて、きょとんとする梓。
 そんな顔がたまらなく可愛く感じられるのだから、もう観念するしかないのだろう。


「・・・この作品を書き上げるまでは、我慢しようと思ってたんだが。やっぱり、あんた相手だとそううまくはいかんらしいな」


 諦めたようなため息は相変わらず。
 しかしどこか吹っ切れたような様子で、満足そうに笑う村雨。
 そんな彼は初めてだった。
 声をかけようとした梓よりも先に、村雨が彼女の名を呼ぶ。


「梓」

「!」


 呼び方が違う、と思ったときには、梓は彼の腕の中にいた。


「あの・・・」

「ちと黙っててくれんかね」


 あっという間に唇を塞がれた。
 ゆっくりと、感触を確かめるように、角度を変えながら何度も触れあう。
 優しいようで、一切の抵抗を許さない。
 そう思ったら、ぞくりと心が震えた。


「・・・そんな顔しなさんな」


 唇が触れたまま囁くなんて反則だ。
 反論しようと薄く開きかけた唇の合間を縫って、梓の口内に熱い塊が侵入する。
 それはゆっくりと、梓を宥めるように、口内を犯す。
 そこからもたらされた熱がじんわりと、確実に梓の思考力を甘く奪っていく。


 ――――駄目だ、力が入らない。


 全身の力が奪われていく。
 何も考えられない。
 くたりと梓の体から強張りが解けたのを見て、村雨はそっと彼女を横たえる。
 上気して見上げるその顔は、もはや小娘とは言えず、匂い立つような色香の漂う一人の女だった。
 それが自分だけに見せる顔なのだと思うと、村雨の胸にはたまらなく愛おしさが募った。


「村雨さん・・・」


 彼女の濡れた瞳が欲情を誘う。
 これが無意識だというのだから恐ろしいのだ。


「結局理由をつけてみたって、俺はあんたが欲しくてたまらなかったんだ」

「本当に・・・?」

「あんた相手に、今更隠しても仕方ないだろう」


 降参だ、と呟いて、村雨は梓の上着に触れる。


「おしゃべりはここまでだ。ま、本当かどうかは、あんた自身が確かめてくれ」

「はい・・・分かりました」

「ん、良い返事だ」


 梓を気遣っているのか、少しずつゆっくり、村雨の熱い指が彼女を素の姿に暴いていく。
 焦らされているようで恥ずかしいと訴える梓は、その一言こそが彼の嗜虐心を煽っているなどとは露ほども気が付いていない。


 温かい電球の光が、二人の姿を仄かに照らす。
 堰を切った想いは、一度溢れてしまっては簡単に止められるものではない。
 衣擦れの音と、切羽詰まった吐息、切なく甘い声の中、二人だけの夜は密やかに過ぎていった。



   ※   ※   ※   ※   ※



「そろそろ聞いても良いですか?」

「ん?」


 一服しようと煙草に手を伸ばした村雨に、梓は今更ながらのことを尋ねた。


「村雨さんが私をここへ呼んだ理由って何だったんですか? あ、ええと・・・、きっかけって言うんでしょうか。何かあったのかなって思って」

「・・・・・・」


 村雨は答える代わりに煙草に火をつけた。
 煙を燻らせながら間をおいたが、梓がじっと凝視するのに耐えられなくなったのか、誤魔化すようにふいとそっぽを向いた。


「・・・別に。会いたくなった、だけじゃ不満か?」

「不満はないですけど、連れ出し方がちょっと強引だったので、何か起きたのかと思ったんです」


 今にして思えば、予定も確かめずにわざわざ直接軍邸まで村雨がやってくることは今までなかった。


「慎み深くしていろっていう割に、明日まで帰せないなんて九段さんに言うし。良く考えてみたら色々矛盾していますよね」


 当初彼には、梓と契りを交わすつもりはなかった様子だった。
 会いたくなった、というのが真実であったとしても、いつもの彼とは違和感があるのだ。
 その正体は何だろうか。


「・・・・・・」

「・・・・・・」


 無言の攻防の末、折れたのは村雨だった。


「分かった。ったく、変なところで鋭くなって」


 まだ半分以上も残っている煙草を灰皿に押し付けて、吐き捨てるように素っ気なく告げる。


「マスターに焚きつけられたんだ。あんたと九段が仲良く逢引してたってな」

「逢引って、デートってことですか?」

「まあ、そうだな」

「そんなこと、するわけないじゃないですか!」


 自分の想いを疑われたみたいで、梓は声を荒げた。
 私は村雨さん一筋なのに、という抗議の視線を受けて、村雨は降参とばかりに両手を上げた。


「あんたは良い娘さんだ。俺なんかじゃなく、他の奴に心移りしても仕方ないし、俺にそれを咎める権利もないだろう」

「本気でそう思ってるんですか」

「思ってたよ」


 信じられない想いで、梓は村雨を睨む。
 中途半端な気持ちでこの世界に残ったわけじゃない。
 向こうの世界に残してきたものは、決して簡単に手放せるものではなかった。


 それでも村雨と一緒にいたかった。
 その一念だけで故郷に別れを告げた。
 たとえ二度と帰れなくなったとしても、村雨と離れ離れになることの方が耐えられなかったのだ。


 それなのに、その覚悟を信じてもらえていなかった。
 悲しいというよりは、自分自身が情けなくて、悔しくて涙が滲んだ。
 それを見て村雨がぎょっとする。


「お、おい。話は最後まで聴け」

「嫌です。これ以上村雨さんの話を聴いたら、ほんとに泣いてしまいそうだから」

「悪かったよ。俺があんたに惹かれているのは紛れもない事実だよ。だがもしこの先、あんたがこの腕を離れていくことになったら、深入りすればするほど受ける傷は深くなるだろう」

「私は、心変わりしない自信があります」

「あんたはそう言うだろう。だが俺は、そうやって言ってくれるのが果たしていつまでなのか、と考えちまうんだよ」

「それは、村雨さんが大人だからですか?」

「そうだ」


 面倒くさいです、と梓ははっきり言い切った。


「ああ、そうだ。面倒くさいんだ、大人は」


 居直る様に、堂々とうなずく村雨。
 大人になれば、そんなに簡単に大事なものを手放せるのだろうか。
 それとも、村雨にとって自分はそう簡単に手放せるくらいの存在なのか。
 怖くて答えを聞きたくない。
 沈み込んでしまった梓を、村雨はぎゅっと腕に収めた。


「だが、色々防護策をとってみても、よりにもよって九段に嫉妬するわ、結局あんたを奪っちまうわ、あんまり威張れたもんじゃないがね」

「へ?」


 あっけにとられた梓の顔を見て、にやりと口元を歪める。


「良い大人が、いつか離れて行くかもしれない娘を無責任に抱いたりするもんかね」

「ええと・・・」

「まだ分からないか?」


 村雨は梓の首筋に唇を寄せると、赤い痕を作った。
 びくりと身を震わせた様子が愉快だったのか、ますます彼の笑みは意地悪そうに深まる。


「俺はあんたを誰にも譲る気なんてないね。このままずっとこの腕の中に繋ぎとめておきたい」

「・・・本当に?」

「ああ。ずっと一緒にいて欲しい」


 事後の寝床の中で甘く囁かれたら、もうどうしていいのか分からなくなる。
 梓の目には先ほどとは違う涙がこみ上げた。


「結局あんたを泣かせちまうんだな」

「これは嬉し涙だから、良いんです」

「何を大げさな」

「それくらい、村雨さんの言葉が嬉しかったから」


 ぼろぼろ涙を零しながらも、梓は今までに見せたことのないほど晴れやかに微笑んだ。


「ありがとうございます」

「なに、礼には及ばんさ」


 涙を拭うように寄せられた村雨の唇が、再び梓のそれと重なるのにそう時間はかからなかった。
 まるで唇を食むような口付けは、先ほどまでの情事を簡単に呼び起こす。


「・・・まだ、夜明けまでには早いだろう」

「ん・・・はい・・・」


 素直に身を預けてくる梓を、愛おしそうに見つめる村雨。
 月の位置が変わったのか、窓越しに柔らかな明かりも加わって、より一層部屋の陰影が濃くなる。
 その影が薄らいでいくまで、二人だけの時間は続いていった。






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