あなたにあいたい 

 5




 ――――心さん・・・。
 
 遠くで自分を呼ぶ声が聞こえる。

 ――――心さん・・・、行かないで。

 胸をえぐられるような悲痛な叫び。
 心ノ介は正面に見える、この声の主を見る。
 この声の正体は・・・。
 考えようとしたとき、一段と悲壮な響きを持った一言が、心ノ介の耳朶を打つ。

 ――――お願い、行かないで。

「――――っ!」
 毎夜寝るたびに聞こえてくる声に、この日もまたいたたまれなくなった心ノ介は飛び起きた。
 周りはまだ白み始めたばかり。
 人々が起きてくるには少し早い時間だった。
 拳を握り締めていたのか、指の関節が痛い。
 呆然とした心ノ介は、だんだんと現状を理解するにつれ、重々しいため息をついて頭を抱えた。
 ――――まただ。
 眠るたびに聞こえる声は、やむ気配がなかった。
 この叫びの主を、心ノ介は知っている。
 この声の聞こえ始めたのは、あの娘と別れてからだ。
「行かないで!」
 あの日、あの城を去るとき、彼女は大声でそう言った。
 逃亡中あまりわがままも言わなかった彼女の一番の願いを、しかし心ノ介はあの時振り切るしかなかった。
 一国の姫とただの浪人。
 身分の差がありすぎる。
 あのまま彼女を連れて城を出てしまえたら、ずっと一緒にいられたかもしれない。
 だが、それは仲間への裏切りでもあるし、何より、何不自由ない生活を約束されている彼女を、みすみす苦労させると分かっている生活に巻き込むのは耐えられなかった。
 だが、この有様はどうだろう。
 離れてさらに募る彼女への思い。
 あの時本当にあの選択肢しか自分にはなかったのかという疑問と、結局は離れることを選んだことに対する迷い。
 吹っ切ったはずだった。
 彼女が幸せになるならば、それで良いのだ。
 恐らくこんなに悩む必要はなかったのだろうと、心ノ介は思った。
「――――くそっ」
 忌々しさを振り切るために、心ノ介は外へ出た。
 皆が起きるまでにはまだ時間がある。
 人の気配はない。
 心ノ介は近くにあった無人の寺の境内を見つけるや、すっと刀を抜いた。
 つい先日新調した鍔の具合も悪くない。
 なまくらとはいえ、真剣。
 白刃をきらめかせて一閃、己の迷いを断ち切るように刀を振り下ろす。
「はっ!」
 その表情は、いつも寒いギャグを言っては場を凍りつかせていた者とは同一人物と思えぬほど、厳しい。
 自己流の剣術なので、決まった型などない。
 だが、見るものを圧倒する鋭い一振りは全てを断ち切れそうだ。
 しかし、いくら剣を振るっても、心ノ介の心は晴れなかった。
 気がつくといつの間にかすっかり日が昇っていた。
「っ・・・」
 こめかみあたりを流れていった汗を肩で乱暴にぬぐいながら、心ノ介はようやく刀を納めた。
 ふう、と大きな息を吐き出したと同時に、それを待っていたかのように腹の虫が大きく騒いだ。
「・・・くそう、結局オチをつけてしまう自分が憎い」
 それで一気に体の力が抜けた心ノ介は、もと来た道を戻り始めた。
 ぽつぽつと人が表へ出始めてきている。何かを煮炊きしているのか、空腹を刺激する良い匂いが鼻先を掠めた。
「おっと」
 心ノ介は思わず匂いにつられてふらついたところで、向かいから来た者とぶつかってしまった。
「すまねえな」
 軽く謝って隣をすり抜けようとしたのだが。
「おい、待たねえか!」
 ぶつかられた男が、低い声でそう呼び止めた。
 絵に描いたような柄の悪い、一目でかたぎではないと分かる風体の男だ。
 よくみるとその男の後ろには二人、同じような雰囲気の連れがいる。
 これは少し面倒なことになったか、と思いつつ、心ノ介は仕方なく足を止めた。
「・・・何だよ」
「なんだよじゃねえ。こっちはぶつかられたんだぞ。俺にぶつかっておいて、ただで済むと思ってんのか!」
「だから、ちゃんと謝ったじゃねえか」
「あれで謝ったつもりか! てめえ、なめてんのか!」
 普段の心ノ介なら、ここで場の空気も考えずにボケの一つでもかましていたかもしれない。
 しかし、このときの心ノ介は違った。
 いつもより気が立っている。
 あの夢が、あの夢の中で彼を呼ぶ声が、彼の心をかき乱していた。
「・・・じゃあ、どうしろってんだ?」
 明らかに敵意むき出しの視線を受けて、男たちの顔色が変わった。
「てめぇっ・・・おい! こいつに礼儀ってやつを教えてやるぞ!」
「おお!」
 言うが早いが、男たちの手には匕首が握られている。
 鈍い光を向けられても、心ノ介には微塵も動揺がない。
「礼儀を教えてやるってのはな・・・」
 三人まとめて刃を突き出してきたのを難なくかわすと、
「それはこっちのセリフだ!!」
 鞘ごと引き抜いた愛刀を横一文字に薙いだ。
 風が鳴り、鋭い一撃が三人を襲う。
「ぐあっ!」
 ぼきり、という音が聞こえたかもしれない。
 たった一撃。それですでに勝負はついた。
 三人はそれぞれ腹部に重い打撃を受けた。
 確かな手ごたえを感じる間に、三人はその場にうずくまっていた。
「い、いてえ・・・くそっ、兄貴・・・」
 子分らしき男が情けない声で痛みを訴えるのを、心ノ介にぶつかった男は黙殺し、じっと心ノ介を睨み上げた。
「て、てめえ、こんなことして・・・ただで済むと思うなよ・・・」
「なんだ? 金でもくれんのかよ」
「くっ・・・絶対、後悔させてやるからなっ・・・」
 お決まりの文句を、心ノ介は「はいはい」と軽く受け流し、三人を置き去りに歩き始めた。
 敵に背を向けているはずなのに、何の警戒心も感じられないのが、倒れこんだ男にさらなる屈辱感を与えた。
「覚えてろ・・・俺を・・・いや、俺たちを敵に回した恐ろしさを見せてやる」
 その場から動けないでいる姿からは、それはただの負け惜しみにしか聞こえない。
 だが男の目は、恐ろしいほど深い憎しみをたたえ、心ノ介を睨み続けていた。








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