あなたにあいたい



 ――――心さん。
 自分でも知らぬうちにそう呟いていたことに、しかし紗依は驚かなかった。
 目覚めのときはいつもそうだ。
 夢の中で心ノ介を呼び続け、それがかなわないことに絶望する。
 何度も何度も呼び続けて、その声で目が覚めるのだ。
「・・・あれ?」
 涙でぼやける視界に、うっすらと人影が映った。
 誰?
 目をこすろうとした紗依よりも早く、その人物が流れ落ちる涙をぬぐった。
 あたたかく、大きなそれが優しく紗依の頬を撫でる。
 誰だろう。
 ひどく安心できる。
 目を閉じてされるがままにしていると、その人物はふと笑いをこぼした。
「そんな無防備な顔していると、キスとか色々しちまうぞ」
「え・・・?」
 聞き覚えのある声に紗依は目を見開いた。
 今度ははっきり映る目の前の人物。
 赤い髪に、意志の強そうな双眸。
 よく見ると、紗依は自分の涙をぬぐってくれたのとは反対の彼の腕を枕にして寝ていた。
 自分を包み込むあたたかさが、添い寝のためかとようやく分かった。
「心・・・さん・・・?」
 信じられない思いでその人物の名を呼ぶと、彼は少し照れたように、「おう」と短く返事をした。
 どうして?
 紗依はとっさに辺りを見回した。
 そこに見覚えはない。
 自分の部屋でもないし、昨日泊まった宿屋でも、さらわれた先の廃寺の中でもなかった。
「ここは・・・?」
「どこだと思う?」
 逆にそう問い返されて、紗依はしばし口を閉ざした。
 あれだけ願った人が、目の前にいる。
 そして、優しく微笑みかけてくれる。
 そんな願ってもない状況が今、目前に取り揃えられているのだ。
 こんなことが本当に起こりうるのか。
 そう思うと、ようやく紗依は合点のいく理由を見つけた。
 ――――そうか。
「ここは、天国ですね」
「ああ、なるほど〜・・・・・・って、俺は死んでいる設定かよ」
「じゃあ、幽霊ですか?」
「お前はどうやっても俺を死なせたいんだな・・・」
 がっくり肩を落とす心ノ介に、思わず紗依は笑ってしまった。
 変わらない明るさに、また涙があふれる。
「え、あ、ど、どうしたんだ。俺が死んでいないことがそんなにショックだったのか。何なら、その設定でも・・・」
 あたふたする心ノ介に紗依は首を振る。
「違う・・・ずっと逢いたかったから・・・。いつもの夢では、心さんは、呼んでも行ってしまうんです・・・だから、夢でも、心さんに会えたことが嬉しくて・・・」
 いつも背を見せて去っていってしまう心ノ介。
 何度呼んでも駄目だった。
 それなのに、今はこうしてそばにいてくれるのだ。
 これが夢と言わずして、何なのだろう。
 紗依の言葉に、複雑な表情を浮かべた心ノ介だったが、開きかけた口を閉ざして、そっと彼女の身を抱きしめた。
「お前は、俺に会いに来たのか?」
 その問いに、紗依はしっかりとうなずく。
 私はあなたに会うために、時代まで超えてしまったんです、と心の中でそっと呟いたとき。
 ――――あれ?
 そこでようやく紗依は一つの疑念に気がついた。
「心さん、どうして・・・? 私がわかるんですか?」
 今まで失念していたが、もう紗依は初姫の姿をしていない。
 見た目では判断できないはずなのに、会話があまりにも成立しすぎている。
 心ノ介は、そういえば紗依に名を呼ばれても変な顔一つしなかったし、また彼女の名を問おうともしなかった。
 驚きの顔を向けると、心ノ介はちょっとむっとした顔をした。
「なめるなよ。変装したくらいで、俺の目をごまかせると思ったら大間違いだ」
「え、え? 変装?」
 どういうこと?
「まって、えっと・・・じゃあ私は・・・」
「望月藩の初姫だろ?」
 あっさり過ぎるほど簡単に心ノ介は言い切った。
「で、でも、私、全然お姫様らしくないし、顔だって初姫さんより可愛くないし・・・」
「そんなこと、関係ねえ」
 心ノ介はうつむく紗依の顔を上げさせる。
「・・・最初は確かに別人かと思ったが、間違いねえ。お前が、俺たちが守っていたお姫さんだ」
「どうして? どうして分かったの?」
 どうにも納得できずに紗依は食い下がる。
「どうしてって・・・・・・えー、におい?」
「に、においって・・・犬じゃあるまいし」
 そんなににおうのかな、と自分の腕を鼻に近づけた紗依に、思わず心ノ介は吹き出した。
「それに、お前は相変わらず寝言がひどいからなぁ」
「えっ?」
 そういえば、旅の途中でもそんなことを言われたんだっけ。
「な・・・何て、言っていました?」
「教えてほしい?」
「それは・・・はい・・・」
「――――駄目」
「え?」
「内緒だ」
 そんな、そこまで言いかけて、と紗依は抗議したが、心ノ介は笑うだけでその先を言おうとはしなかった。
「あーあ。せっかく、お姫さんのために、カッコ良く思いを断ち切れたはずだったのに」
 ごまかすように、そんなことを言い出す。
「結局、お姫さんのこと、忘れられなかったんだな・・・。そういえば、繭澄藩の次男と婚約したんだろ」
「あ! そ、そのことなんですけど!」
 心ノ介が自分を見抜いてくれた。
 やはり夢の中は、紗依の望むようにことが進んでくれるようだ。
 しかも、うっかり聞き逃すところだったけれど、「忘れられなかった」なんていってくれた。
 これ以上の幸福があって良いのか。
 あまりの嬉しさに色々忘れていたが、その勢いに乗って紗依はようやくいわなければならないことを口にした。
「ごめんなさい。私、初姫ではないんです」
「はあ?」
 何を言っているのか分からない、と心ノ介はいぶかしげに眉を寄せる。
「俺を担いでいるのか?」
「ち、違います。だってほら、姿は全然違いますし」
「だからそれは変装で・・・」
「そうじゃないんです」
 なかなか思うように説明できないことにもどかしさを感じながら、紗依は必死に言葉をつむぐ。
「私は、確かにあの時初姫さんの姿をしていました。でもそれは、死ぬ運命にあった初姫さんを助けるためで、私は意識だけ未来から飛ばされてきたんです」
「え・・・?」
「あなたと別れてから、私の意識は未来に戻りました。でも、あなたのことが忘れられなくて、あなたに会いたくて、今度は自分の姿でこの時代に来たんです」
 自分でも、言っていて普通そんなことが起こるわけない、と思う。
 だが、それが事実、全てなのだ。
「初姫さんや宗重さん、それに棒さんや用ちゃんに励まされて、心さんに会いに行こうと・・・」
「・・・あいつら、それで」
 心ノ介はようやく二人の宿屋での不機嫌の理由を知った。
「とても信じられないでしょうが・・・」
 うつむきかけた紗依の頬に、すかさず心ノ介の手が触れた。
「・・・じゃあ、お前は誰だ?」
「私は、本当の名前は紗依といいます」
「身分は?」
「ありません。未来には、身分はないんです」
「俺に会いにきたってことは・・・えと・・・・・・なんだ、つまり、俺のことが、す・・・す・・・・・・」
「好きです」
 自分でも驚くほど滑らかに言葉が出た。
「私はあなたが好きです。ずっとずっと、忘れられなかった・・・」
 言えた。
 今までずっと言えなかったことが。
 やっと心ノ介に伝えることができたのだ。
 たとえ夢の中でも良い。
 今までは呼びかけるだけで、心ノ介の背中を見ることしかできなかった。
 それが・・・。
 重大な任務でも果たしたように、大きく息をついた紗依の目から、再び熱い雫が流れ落ちる。
「お、おい・・・」
 うろたえた心ノ介の大きな手に、紗依は己の手を重ねた。
「すみません。何だか本当に嬉しくて。心さんに会えたことも、ちゃんと告白できたことも・・・」
 本当に、これが夢でも良いのだ。
 今、一番満ち足りているから。
 他に何か望んでは、罰が当たってしまう。
「・・・・・・後悔しないか?」
 紗依を抱きしめる腕に力を込めながら、心ノ介は低い声でそう言った。
「これから、俺と一緒に生きていくことになっても、お前は後悔しないか?」
「しません」
 間をおかず、きっぱりと紗依は言い切った。
「仕官してねえから、収入は安定しねえし、お姫さんのときみたいな贅沢はできなくなるぞ」
「私はお姫様ではありませんから」
「俺のものにしたいって言ってもいいのか?」
「・・・うん、むしろそうなったら嬉しい・・・」
 「俺のものに」の部分がやけに耳に残って、紗依は顔を赤らめる。
 そんな彼女を見下ろすように、心ノ介は体をずらした。
「――――紗依」
 初めて本当の名前を呼ばれてそちらに視線を向けると、いつの間にか心ノ介の顔が迫ってきていた。
「!」
 驚きで息を呑んだと同時に、唇を奪われた。
 やわらかい感触が遠のいてから、ようやく紗依は何をされたか自覚した。
「じ・・・心さん・・・」
 思わず唇に手を当てると、すかさず心ノ介がその手をそっと払いのける。
「前、約束したよな。お前を無事城に連れていけたら、キスしてくれるって」
「は・・・はい」
「もっと、しても良いか?」
 良いか、という疑問文なのに、嫌という選択肢は用意されていないし、たとえあったとしても紗依にそれを選ぶ気はなかった。
「・・・・・・どうぞ」
 何と返事をして良いか分からずそれだけ告げると、
「んっ・・・」
 先ほどより乱暴に唇が重なった。
 こんな経験、あるはずない。
 だが、次第に膨らんでいく、もっと触れていたいという思いが、紗依の腕を動かしていた。
 紗依は心ノ介の首に腕を回す。
 恋愛経験のない自分が、どうしてこんなに大胆なことができたのだろう、と不思議に思う。
 しかしこれも夢ならば、納得できる気もした。
 唇が離れて、互いの視線が交錯したとき、紗依はふわりと微笑んだ。
「何だか、幸せすぎて・・・。この夢が覚めてしまうのがとても怖いです」
 きっとまた寝起きには、心ノ介のいないことに絶望するのだろう。
 夢が幸せであればあるほど、さめたときの落胆は大きい。
 ――――それでも。
「私、この夢が実現できるように、目が覚めてもあなたを捜しますね」
「え? あ、あー、いや、そのことなんだけどよ・・・」
 なぜか心ノ介は言葉を濁しつつ、ぼそぼそと独り言のように呟く。
「いや、俺はよ、お前が、これが夢だっつーなら別にかまわねえんだけどよ・・・あ、うん、お前を否定するわけじゃねえんだ。だけど・・・」
「? どうしたんですか?」
「だから、よ・・・。つまりだ。俺が思うに、お前はとっくに目が覚めているんじゃねえかと」
「え?」
 紗依は自分の耳を疑った。
 そんな彼女にさらに心ノ介は言葉を付け足す。
「あ、あくまでほら、俺の個人的な意見なんだけど・・・嘘だと思うなら、ほっぺたつねってみな」
 そう言われて、紗依は心ノ介の両頬を思い切り引っ張った。
「ひてててっ、ば、馬鹿! 自分のつねらなきゃ意味ねえだろ」
 心ノ介はお返しとばかりに、彼女の頬を軽くつまんだ。
 ぴり、と走った痛みに、紗依は頭が真っ白になった。
「・・・普通、夢って、痛みとか、感じないですよね?」
「まあ・・・一般的にはな」
「今、ほっぺたが痛かったってことは、これは夢じゃないってことですよね?」
「多分・・・そうだろうな」
「ということは・・・」
 告白もキスも、全部現実ということで・・・。
「きゃあああっ!」
 恥ずかしさのあまり、思わず悲鳴を上げた。
「わっ、馬鹿! 落ち着け!」
「そ、そんなこといわれても・・・」
 血が一気に顔に集まったように、今までにないくらい顔が真っ赤に染まって、鼓動も限界に近いくらい早鐘を打っている。
 どうにかしろといわれても、どうにもならない。
「え? え? 待って・・・」
 紗依はようやく、意識を取り戻す前の自分の状況を思い出した。
 心ノ介に逢いたくて、時代まで超えてまたここへ来た。
 初姫たちの協力を得て、やっと心ノ介のとどまっているという宿屋までたどり着いた。
 だが、柄の悪い男たちにさらわれてしまった。
 気がつくと古いお寺に、手を縛られて転がされていた。
 そこにいた大男に頭を殴られて、意識を失った・・・。
 その次にはもう、心ノ介が目の前にいた。
 ということは・・・。
「心さんが、助けてくれたんですか?」
「ああ。てか、俺のせいで危険な目にあわせちまって、悪かったな」
「でもどうして? も、もしかして、さらわれた女、というのに、心当たりがあったんですか?」
 もしそうだとしたら、紗依ではない誰かを想定していたのではないか。
 だが来てみれば、違う人物が転がっていた。
 誰かを見捨てることのできない心ノ介は、仕方なく助けたのでは・・・。
 その不安が顔に出ていたのだろう。
 心ノ介が真面目な顔をする。
「さらわれた女の心当たりなんて、お前しかねえよ」
「でも、だって、私がそこにいるなんて、普通思わないですよ」
「だから、もしそうだったら嫌だと行ってみれば、見事にお前がいたんだよ」
 そんな、できすぎている、と紗依は思った。
 こんな偶然が本当にあるのだろうか。
 でも、現にこうして自分は助かって、なおかつ心ノ介の隣にいる。
「じゃあ、ここは・・・?」
「あの廃寺に近い宿屋だ」
 聞けばずいぶん長いこと眠っていたらしい。
 もうとっくに夜は更けていた。
「・・・というわけで、全部夢じゃねえんだけどよ」
 ようやく落ち着いてきた紗依に、心ノ介は一つ大きな咳払いをした。
「今更さっきの告白は冗談です、なんてのはなしだぞ」
「あ・・・はい・・・。と、取り消したりしません・・・」
「・・・いや、取り消されても、もうお前を離せないんだけどな」
 苦笑いを浮かべながら、心ノ介は紗依の唇に再び己のそれを重ねる。
「お前がお姫さんじゃないなら、もう何も、遠慮しなくて良いんだろ」
 熱い吐息の混ざった呟きが、紗依の耳朶を打つ。
 戸惑いながらも、紗依はうなずく。
 紗依の目の前には、恐ろしく真剣な表情の心ノ介がいる。
 その瞳の奥に映る自分の顔と、今まで見せたことのない艶っぽさが、彼女の思考を奪っていく。
「紗依・・・好きだ」
 熱っぽい告白が耳に心地よくて、紗依は静かに目を閉じた。



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