約束





「アンジェ・・・」

 愛しい名前だ。
 けれど今は痛みを持っている。
 いくら呼んでみたところで、返事は一切ないのだから。
 レインは自分が今、夢を見ていることを理解していた。
 眠りにつくといつも見るのだ。
 あのときの――――アンジェリークが飛び立ってしまうときの、あの光景を。

「!!」

 それを見たくなくて、最近ではずっと、眠りにつくのが怖かった。
 何度も何度も、絶望感を抱かせる。

 どんなに呼びかけても。
 どんなに腕を広げてみても。
 結局アンジェリークは飛び立ってしまうのだ。
 遠く、遠く、こことは違う遥か悠久の場所へ。

 今度もまた、アンジェリークは天空へ去っていってしまった。
 たいていはここで目が覚める。
 時計を見ると大体まだ眠り始めてから二時間もたっていないのだが、それ以上眠る気にはなれなかった。
 だから、今日は初めて夢の中に長居している。

「アンジェ・・・」

 どうして自分はみすみす彼女を行かせてしまったのだろう。
 世界を救うために、女王になることを望んでいた彼女。

 しかし、世界を救う方法は、他にいくらでもあったのではないだろうか。

 自分が見つけられなかっただけで、本当はアンジェリークを女王にしなくても良い道があったのでは。
 レインの胸の中に、改めて後悔が生まれた。

 結局何も出来なかった自分。
 彼女を女王にして平和になった世界に自分がいることに、一向に慣れる気がしなかった。
 アルカディアが平和になることを望んでいたはずなのに、今の世界が幸せだとは思えない。
 一人欠けただけで、レインの人生は暗く閉ざされてしまっていた。

「アンジェ・・・」

 会いたい。

 本当に、少しでも良いから、言葉を交わしたい。

 謝りたい。

 彼女に触れたい。

 他には何もいらない。

 自分の命さえいらない。

 何もかも、全部捨ててしまっても良いから・・・!

「ダメ。そんな悲しいこと、言わないで」

「え?」

 どこからか、一番聞きたかった声が降ってきた。
 レインははっとして顔を上げる。

「アンジェ!?」

 あたりを慌てて見回す。
 すると、いつの間にか背後に、愛しい少女が立っていた。

「アンジェ・・・?」

 恐る恐る名前を呼ぶ。
 すると。

「ええ」

 その少女は・・・女王になったアンジェリークは控えめにうなずいた。

「アンジェ・・・」

 レインはゆっくり彼女に近づいていくと、そっとアンジェリークの頬に触れる。
 あたたかい。
 夢なのにそうはっきりと感じた。
 何度も撫でていると、恥ずかしそうにアンジェリークはほんのり頬を染めた。

「本物・・・?」

「ふふっ、レインたら。もう私のことを忘れちゃったの?」

「!」

 レインははじかれたようにアンジェリークを抱きしめる。

「忘れていない! この半年、ずっとお前のことだけを考えていた!」

「ええ・・・」

 その言葉に、アンジェリークは複雑な笑みを浮かべた。
 レインの腕にある大切な存在は、そこにいるだけで心が静まっていく。

 離したくない。

 ずっと望んでいた人物が目の前にいるのだから。
 もう会えないのかと思っていた。

「アンジェ・・・」

 レインは腕に力を込める。
 言葉にはしなくても、その抱擁から彼のアンジェリークへの想いがあふれていた。
 アンジェリークはそっとレインの腕に触れる。

「レイン、少し痩せたわね」

 手袋を取って現れた白い指が、今度はレインの頬を撫でる。

「顔色も悪いわ。また、無理をしているのね。ダメじゃない。あれほど、食事をちゃんととって、夜には寝ないとダメよって言ったのに」

 ぽつり、とアンジェリークの頬に雫が落ちた。

「レイン?」

 はじめ驚きで目を瞠ったアンジェリークだったが、すぐにふわりと微笑んで、レインの両頬を包み込む。

「泣かないで。私はここにいるから」

 そう言って、アンジェリークは流れ落ちるレインの涙を優しくぬぐう。
 彼女に言われて初めて、レインは自分が泣いていることに気がついた。
 そういえば視界がぼやけてしまったと思っていた。

「・・・・・・悪い」

「いいの。大丈夫よ」

 彼女の言葉に甘えるように、レインはアンジェリークの肩に頭を預ける。
 人前で泣くなんて、一体どれくらいぶりだろう。
 いや、「泣く」ことを始め、感情表現をしたのはずいぶん久しぶりのような気がする。
 きっと、アンジェリークが天空に上って以来、喜怒哀楽はどこかにしまいこんでしまっていたのだろう。
 ようやく涙が収まったレインは、ゆっくりと頭を上げた。

「悪い。情けないところを見られてしまったな」

「そんなことないわ」

 微笑みながら首を振ってくれるアンジェリークを見ていると、レインの口元にも自然と笑みが浮かぶ。
 だがすぐに彼は表情を曇らせた。

「お前は女王になって、一人で聖地にいて寂しくはないか? 何か不自由は? つらいことはないか?」

 ずっと気がかりだった。
 一人聖地に行き、平和のために祈り続ける。
 それは尊いことのように思えるが、女王となった彼女はそれを苦しく感じていないだろうか。
 しかし、レインの不安にアンジェリークの微笑で応える。

「寂しくはないわ。聖地からいつも平和なアルカディアを見ているもの。それに、宇宙意思も傍にいるから」

「そうか・・・」

 アンジェリークの言葉を聞いても、レインの表情は晴れない。

「お前にはずっと謝らなければと思っていたんだ。お前はアルカディアから離れることをつらく思っていたのに、オレは結局お前を女王にする道しか選べなかった」

「レイン・・・」

「今だって。すぐにでもお前に会いたかったのに、その方法が見つからないんだ。どんなに研究しても、女王に会うためにはどうしたらいいか、分からない。ずっと、お前に会いたかったのに・・・」

 すまない、とレインは目を伏せた。
 目を伏せると余計に彼の顔は暗く見える。
 痛ましそうにそれを見やったアンジェリークは、思い切り首を振った。

「違うわ! レインが悪いんじゃない。私が女王になると望んだのよ。そんなに自分を責めないで。私は女王になったこと、全然後悔していないもの」

「でも、みんなと離れることはつらかっただろう? 他に何か方法があったはずなんだ。お前が聖地へ行かなくてもすむ方法が」

 レインはぎゅっとこぶしを握る。

「オレが必ず見つけ出すから。絶対に、この命に代えても・・・」

「ダメ!!」

 レインの言葉を強く否定するように、最後まで言い終わらないうちにアンジェリークの大きな声が重なった。
 その声は怒気をはらんでいた。
 レインは大きく目を見開く。
 そんな彼には構わず、アンジェリークはレインの肩を力強く掴んだ。

「命に代えてなんて言わないで! レインの命の代わりに私がアルカディアへ降りることが出来ても、何の意味もないわ!」

「アンジェ・・・?」

「レインの馬鹿! 無理ばっかりして、こんなにやつれてしまって!」

 アンジェリークはそこで一度唇をかみ締めた。
 そして再び、きっとレインを睨む。

「私がいつもどんな思いでレインを見ていたと思うの? いつもいつも、聖地からレインを見ていたわ。不規則な生活で、日に日にやつれていくのを、私は何も出来ずに、ただ見ていることしか出来なかった。私には、手を差し伸べることも声をかけることも出来なかった!」
 
 彼女がここまで怒るのは珍しい。

 もしかしたら初めてかもしれない。

「レインなんてもう知らない! 自分を大切にしないし、周りの人には心配をかけるし。レインなんて・・・!」

 アンジェリークの言葉はここで詰まった。
 代わりに嗚咽が漏れる。
 先ほどは我慢できたのに、もう限界だった。
 アンジェリークはレインを力いっぱい抱きしめた。

「レインなんて嫌いよ。大嫌い!」

「アンジェ」

 レインは戸惑いながらも再び、アンジェリークを抱く腕に力を込める。

「レインの馬鹿・・・」

 言葉とは裏腹に、アンジェリークはレインの体を離すまいと、しっかり抱きついている。
 それで分かった。
 彼女が、どんな思いでいるのかが。

「馬鹿でも良いから、しばらく、このままでいてくれ」

「ん・・・」

 アンジェリークは素直にレインに身をゆだねる。
 すぐ目の前にいる。
 ずっとずっと、会いたいと願っていた人物が。
 その喜びが確かな実感となって、二人の胸にあふれてきた。
 永遠かと思われる抱擁のさなか、アンジェリークがふと吹き出した。

「ふふ。実を言うと、私もレインのことを叱れないの」

「え?」

 レインが見下ろすと、照れたように頬を染めたアンジェリークが映る。
 胸が高鳴ったことを、彼女は気がついただろうか。
 驚いたレインの顔がおかしかったのか、アンジェリークは声を立てて笑う。

「レインに助けを出したくて、ずっと悩んでいたの。女王になってから半年・・・・・・そうしたらね、宇宙意思が見かねたのよ。今こうして会えるのは、特別に彼の力を借りたからなの」

「お前・・・」

「だからね。レインのこと、叱る資格なんてないのよ。さっき私が言ったこと、実は似たようなことを私も言われたもの」

 アンジェリークは初めて、何故自分が怒られたのかが良くわかった。

「ねえ、レイン。手を出して」

「え?」

 何故それを要求されたか分からないレインは、言われるままにそっと右手を差し出す。
 すると、アンジェリークは少し頬を染めながら、「そっちじゃないわ」と反対の手を掴んだ。
 ますます疑問を深めたレインの視線を気にしながら、彼女は小さな石のついた、金色のリングを取り出した。

「アンジェ?」

 そのリングを、かすかに震える手で、レインの薬指にそっと押し込む。

「あ・・・」

 リングはまるでもともとレインの所有物であったかのように、ぴったりと彼の指に納まった。
 綺麗な赤い色が印象的だ。

「レイン、それを見ていてね」

 アンジェリークはそう言うと、自分の指にレインのつけているものと同じリングをはめた。

「これは・・・!」

「ね、凄いでしょう?」

 レインが付けているリングの石が、アンジェリークが指輪をはめたとたん、真紅から新緑に変わったのだ。
 目を瞠るレインの顔を見ながら、アンジェリークはほっとしたように息をついた。

「宇宙意思がくれたの。これは、片方だけはめているときは赤いのだけれど、お互いはめたときは緑に変わるアーティファクトなんですって」

「アーティファクト? これが?」

「ええ」

 目に鮮やかな緑。
 それが幸せな色に見えるのは、きっと相手の指に輝く緑色が、自分の指にもあるからだろう。

「ねえ、素敵ね、レイン。これだったら、遠く離れていても、お互いの存在を感じられる」

 そう言ってアンジェリークは微笑む。
 だが、その顔を見たとたん、レインの表情がいたたまれなさに歪んだ。
 指輪をはめたその手で、彼女の頭を自分の胸に引き寄せる。

 小さな存在。

 これが女王陛下とは思えなかった。
 地上にいたときと変わらぬ、一人の少女のまま。
 けれど彼女には、世界を守るという大きな使命がある。
 このまま彼女をつれて帰れたら、どんなに幸せなことだろう。

 一緒にいたい。

 傍にいてほしい。

 ずっとずっと、彼女の笑顔を見ていたい。

 幸せにしたい。

 幸せになりたい。

 会えないときは、ただとにかく会いたい、会って話がしたいと思っていたはずだったのに、いざ会って話をすると、今度は別の望があふれてくる。
 自分の欲望だけはどうしても抑えることが出来なかった。

「私、この指輪を見るたび、レインとつながっているんだと思うわ。そうしたら、寂しくないもの」

「アンジェ・・・」

「私たちは遠く離れてしまうけれど、でも、どんなに離れていても、私はずっとレインのことを思い続けるわ。レインもそうだと嬉しい」

「当たり前だろう!」

 レインは即座に答えた。
 すると、アンジェリークが泣きそうな顔を、無理矢理笑顔に変える。

「レイン、幸せになってね。あの美しい、私のアルカディアで。私、ずっとずっと、レインが幸せになることを、聖地で祈っているから」

 アンジェリークはレインの背に腕を回すと、ぎゅっと強く抱きしめる。
 それはまるで、最後の抱擁を思わせた。
 だから、レインも渾身の力で彼女を抱く。

「あのね、レイン。私、レインのこと・・・・・・」

「待った」

 アンジェリークがしようとしたことを、レインはすかさず遮る。
 少し腕の力を弱め、身をかがめてアンジェリークの顔を覗き込むと、きょとんとした表情があった。
 それがおかしくて、少しだけレインの表情が緩んだ。
 だがそれも、すぐに引き締まる。

「その先は保留にしておいてくれないか。次に会ったときに、オレから言うから」

「え・・・?」

 次?

 思ってもみなかった単語に、アンジェリークは目を丸くする。

「・・・もしかして、もう会えないと思っていたのか? オレは諦めないぜ」

 レインは驚く彼女の頬に手を添えた。

 ああ。
 何ていとおしいのだろう。
 彼女に告げたい。
 自分の中にずっとあったあふれる思いを。
 そうしたら彼女は、微笑んで受け入れてくれるだろうか。
 そのために自分は何をしなければならないか――――レインにはそれがはっきり分かっていた。

「でも、レイン! そうしたらまた・・・」

「大丈夫だ。今度は無理をしないよ。お前に心配をかけたりしないから」

 安心しろ、とレインは初めて蕩けそうな笑みを浮かべた。

「あ・・・」

 その笑顔に、アンジェリークは思わず見惚れてしまった。
 地上にいたときにもこんな笑顔を見たことはなかったので、顔が赤くなるのを抑えられなかったのも、仕方がない。
 そんな彼女に、レインがそっと顔を寄せる。

「オレの幸せは、お前なしには考えられないんだ。だから、お前がオレの幸せを望んでくれているなら、オレはお前に会うための方法を、必ず見つけ出してみせる」

「レイン・・・」

「お前はそれを、許してくれるか?」

 すぐ近くにレインの緑色の目がある。
 指にはまっているリングと同じ色・・・・・・ああ、だからこんなに緑色が幸せに感じられるのかと、アンジェリークは思った。

 緑色を見ていると、レインに見つめられているような気がするから――――

「ええ、勿論」

「ありがとう」

 自然とお互いの唇が重なる。
 初めて触れるはずなのに、何故か懐かしい思いがした。

 そのとたん、急速にレインの思考は低下していく。
 この感覚には、覚えがあった。
 目覚めが近い。
 体が言うことを利かない。
 彼女が遠くなっていく。
 再び天と地に別たれてしまう。
 しかし、レインにはこれが今生の別れではないことを、知っていた。

 必ず彼女を迎えにいく。
 それがどんなに困難な道のりでも。
 絶対に――――

 レインは意識を失うそのときまで、アンジェリークを強く、強く抱きしめていた。









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